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カルテットと、そのレビューから

‘部屋にも春を’
桜とフリージア2017

ドラマ「カルテット」が、先週終わりました。最近見たドラマの中では、群を抜いて個性的で好きなドラマでした。
ひとつひとつのエピソードと台詞にいろいろ暗示や恣意が含まれていて丁寧で、4人の俳優さんたちが、演技でないくらい上手かったし。毎回、名言が登場して、その度に感心していました。
大人の恋愛サスペンスというふれこみだったけど、とんでもない展開にハラハラさせるのに最後はとても優しいメッセージに着地して、もう、恋愛とかを超えた世界になっていたかな。


けっこう、突いてると思ったレビューがあったので、のっけます。
リアルサウンドの記事ー『カルテット』最終話で真紀が“こぼした”ものとは? どこまでもグレーな結末を読む

この記事の中で、わたしが大きくうなずいた箇所が2つありました。
「白黒つけたがるときは、往々にして相手を糾弾したいときだ。味方でいる分には、白でも黒でもそばにいることには変わらない。」
「自分が手放した道を進む人は眩しく見える。」
です。

以前、カントのことを書いた時、「若い時、全てに白黒つけられないものかと思ってたが、それは自分のエゴだった」と書いたのですが、白黒つけない優しさこそが、お互い過去に傷を持つカルテットのテーマのひとつなんですよね。
「だが、相手をグレーのまま許容するのは、決して簡単なことではない。」とあるように、普通の友人関係では、だいたい無理なんじゃないかと思います。カルテットの4人は、その簡単でないことが乗り越えられていて、それは運命的なことでもあったけど、家族のようなこのつながりが保たれているのは、個々がそれぞれ自分の欲求を二の次にしても相手を思いやっているから。実際には、こんなふうに「大人」でいるのは難しいと思うけれども。

2つ目の「自分が手放した道を進む人は眩しく見える。」は、本当に人間の心の闇ですよね。
「手紙の送り主。きっと安心したいのだろう、自分の選択肢は間違っていなかったのだ、と。」たぶん、手紙の主だけじゃなくて、きっと有朱ちゃんもそうだったのではないかと思います。最後に彼女が「人生ちょろかった!」と4人の前で勝利宣言のように言うのは、「勝ったのは私。ほらごらん、まちがってない。」そういうことでしょう。でも、老いとともに、人生はちょろくなくなるので、彼女がバカバカしいまぼろしと思っているカルテットの夢のように、彼女のステキなちょろい人生もまた、まぼろしのように儚いものになるんでしょうね。
話は逸れるけど、これ、女性同士の嫉妬や確執も、だいたいこれから来ていると思う。
日本の社会では、仕事、結婚、出産の過程で、どうしても女性が選ばされている。手放さざるをえなかったものは、もう次に手に入れることができないか、大変難しい。もう取り返せないほうを肯定的に歩む人を見ると、心がざわつき、不安になる。だからせめて、自分が間違ってないと言って安心したい、という心理ですね。
(ただ、自分が手放した道を進む他人は、自分が手に入れたほうの道は、たいてい手放しているんだけどね。)
これは社会の構造の問題なので、女性同士の問題だと、他人事に思ってる男性がまだまだ多いのが残念だけど。
話が逸れましたが、男性にも、こういう心理はどこかにあるんじゃないですかね。

あと、「直接には役に立たないかもしれないけど、好きでやっていることへの讃歌」というテーマもよかったです。
ふだん、うまく回っている時には気づきにくいけど、仕事から、社会から見放されたと感じるとき、見捨てずにじぶんの味方になってくれるのはいつも、「役に立たないけどいつもやっていること」です。まわりからの援助や助言で救われることもあるかもしれないけど、最終的には、自分がいつもやらずにはおれないこと…家事でもなんでも、案外つまんないルーティンなど、自分でしたことに救われるのです。
最終回の、唐揚げに添えられるパセリのくだりは、たいして役に立たないけどあったほうがいいものとして、突いてるなあと思いました。

ドラマを見て楽しみ、ネット上では他人のこのドラマの見方を楽しんで、2度おいしいドラマでしたが、ゆっくり何度か見返してみたら、さらに味わい深いドラマだろうなーと思います。見返す時は、きっと、何気ないシーンのほうが、ぐっと心に迫ってきそうです。


| 日記・つぶやき diario | 16:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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今日の陶芸

‘マグカップ(素焼き)’この上から絵付けします
陶芸170325
Hoy he dibujado en 2 tazas.

今日は、完成品はなにも上がってこなかったので、前回撮った、素焼き状態のマグカップでもごらんください。
その日は他の作業に追われて、絵付けできないまま終わったので、今日絵付けをしました。古代呉須という色の絵の具(紺色)で、花の絵を描きました。
マグカップは3つあったのですが、ひとつは取手の付け根にヒビがあり、そいつは使えないので、それだけ焼き締めてもらって、植木鉢に利用することにしました。ムダにあがいているような気がしますが、なんか、すぐには捨てられないんですよね。

本日の作陶メモ:
久しぶりに、オーバル型の皿を、柿野赤土で手びねりで作陶しました。先日、オーバル皿って使いやすいのに、あまり持ってないかも、と料理本を読んでいて思ったのです。たぶん、黄瀬戸釉をかけて、鉄釉とかで簡単な絵付けをすると思います。
他には、前々回に作陶した洋梨の小物入れに、白マット釉をかけました。
あと、前回の花入れに、透明釉。これは、表面に、たいへん薄い透明釉を、スポンジで少し染み込ませてみました。さて、どんな感じで出てくるでしょうか。

教室には、バイモの花が活けられており、春らしいなと思いました。先生は、この花がお好きとのことで、「貝母」という字とか、昔の思い出とかから、お母さまのことを連想する、とおっしゃっていました。
花言葉は「謙虚なこころ」だそうです。次回、またカップを作陶することがあれば、灰緑色で、バイモの絵もいいかもしれないな、と思いました。さりげない絵のほうが、陶器にはいいもんだと思います。

| 陶芸 ceramicas | 00:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ランス美術館展

‘ひろしま美術館の看板’
ランス美術館展ひろしま
Fui a la exposición del museo de Reims (Champagne, Francia) en el museo de Hiroshima. Hubo diversos tipos de cuadros en la colección del dueño de companía de vino. Me gustó un cuadro de Paul Gauguin. En la ciudad de Reims, hay una iglesia que hizo Leonard Foujita, un pintor japonés, él terminó su vida ahi. Viendo sus obras, me puse un poco triste por imaginar su corazón. Él no traicionaba ni engañaba a la gente japonés, pero Japón le trató mucho frío. Siempre las guerras cambian el destino de gente. Deseo que acabase su vida felizmente en Francia.

自分で制約を課しているのだから仕方ないといえばそうだけど、ここ数年の単調な生活に、ちょっと閉塞感が大きくなってきました。この連休、どこか行けないかな〜とか思って、1月末から2月ごろ、ちょっとネットで情報を調べたりしていたのだけど、どこに行くにしても、宿も数年前よりずいぶんとりにくくなっているな…という印象でした。お金に糸目をつけないつもりなら、それはいつでも簡単だし、また、旅慣れている人なら、最近の雰囲気や情報もわかるでしょうけどね。
決めきれないで、うかうかしているうちに、ひごろの陶芸教室でさえも、まさかの予約取り損ね。何やってんだろ。こまめさが足りずトロい自分に、まったく嫌気がさした連休でした。

とにかく、何か気分転換しないことには、どうにも気分が収まらなかったので、ひろしま美術館で開催中の「ランス美術館展」に行ってきました。
ランス美術館は、フランスはシャンパーニュ地方の、もと修道院だった建物を利用した美術館です。シャンパンメーカーのポメリー社の、アンリ・ヴァニエが、コレクションをランス市に寄贈してできた美術館だそうで、イタリア絵画、フランドル派、印象派やナビ派、ロマン主義の作品など、主に王政の時代から20世紀に至るまでの作品群を所蔵しています。
また、ランスは、藤田嗣治が、人生の最後の作品として、礼拝堂を作った土地でもあるので、それに関する作品もありました。彼と、その奥様は、その礼拝堂で眠っています。

そういうことだったので、フジタの作品が多いのかな…と思って入場しましたが、以前にも、フジタの作品を扱った展覧会は地元であったので、それに比べれば、正直作品数としては全然物足りない感じでした。
ただ、フジタの作品にふれるとき、いつも、「日本と決別する運命」のことを無視しては見られないので、日本人のわたしとしては、少し切ないような、いたわしいような気持ちになります。
今回も、人生最後の仕事として、フランスに骨をうずめるフランス国民として、キリストの生誕から復活までの物語を「描き上げたらもう死んでもいい」または「これを完成させるまでは死ねない」だったのだろうな。そう思うと、画家の執念みたいなものを、汲み取るべき習作の数々なんだな…と思いながら見ました。ランスが、晩年の彼の「居場所」だったんですね。温かな人情の土地であったことを祈ります。

だったら、テンペラ画は、やはり本物を、本場で見てみたいと思うし、ランス美術館の所蔵作品も、ヴァニエ氏が、そうとう細かい条件をつけて美術館展示に至ったとのことだったので、重厚な修道院の佇まいのなか、赤い壁紙の上に展示されているところで見てみたいです。この展覧会を見ることで、「ランスに行ってみたい。」という気持ちになりました。

今回の展示作品の中では、ゴーギャンの「バラと彫像」と、シスレーの「カーディフの停泊地」(上記ランス美術館展のリンクの中にイメージがあります)、あと、ナビ派、ヴュイヤールの小品などが好きでした。
ゴーギャンはやっぱりいいな。




| アート鑑賞 arte | 18:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ひとことで表せなかった心象風景が

‘散歩日和’
河原土手170312-2
El último verano, encontré un libro en una librería,"Las palabras del mundo que no se pueden traducir en japonés direcramente", Hubo una palabra interesante para mí en él. Eso es WALDEINSAMKEIT en alemán, que signífica la soledad libre y ancha cuando se comunica con la naturaleza en bosque. Yo no voy a ningún bosque de ordinario, pero tengo memórias que me comunicaba con la naturaleza en un bosquecillo cerca de mi casa en mi infancia. Por eso, buscando unas hierbas en la ribera orilla, yo sola, disfruto sentir la naturaleza. ¿Entiendes esa sensación? Puede ser que yo fuera una alemana o finlandesa en la existencia anterior... jajaja.


子ども時代に、ひとりで近所の山に入っては、赤い椿の花を見に行ったり、ざわざわ鳴る風を少し怖いなと思いながら、でもスミレはまだ咲いていないかとかソワソワもしたり、奥の砂防ダムの裏の山蕗を見に行ったりしていました。まだ生き物が活発でない山は入りやすかったので、特に春先のことでした。
そのせいか、明るい陽が適度にあり、自然のある大変静かな空間、自分とも向き合える自由さと、独特なさみしい感じ。説明しにくいんですが、そういうものに惹かれる性分があり、そういうのだれかわかる人いるかな…と思っていました。子ども時代に、まわりにそういう人はいなかったように思います。(だから1人で行ってたというのもある。)

以前、このブログでも少し書いたように、フィンランドあたりでは、人々は夏にきのこやベリーを摘みに、ひとりで森に入るそうなので、そういう感覚がわりとふつうにありそうだとは思っていました。
そして、昨年の夏、偶然、本屋で「翻訳できない世界のことば」という本を見かけたのですが、

ぱっとページを開いた時に、
WALDEINSAMKEIT(ヴァルトアインザームカイト) 
「森の中で1人、自然と交流するときのゆったりとした孤独感」 ※ドイツ語

とあったので、「あっ!」と思いました。あれを、一言で言える国があったんだ!
なんか、うれしい。
もう、森に行く手段もないのですが、今も、毎春の川土手散策と摘み草(つくし)は、この言葉のような気持ちです。
マイ重要単語として、記録しておきます。


‘春の川土手’ 
河原土手170312-1

つくしの短い季節。
ピンクのアネモネは、民家から球根が飛んできたのか。
なぜかスイセンもあったりして、ギリシア神話つながりだな、と思った。

| 日記・つぶやき diario | 17:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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なめこは、やっぱり和なんだ。

‘なめこのバター醤油炒め’
なめこバター醤油炒め
Setas(se llaman nameko en japonés, son muy pegajosas) salteadas con mantequilla y salsa de soja

以前、ネット上に、「なめこをバターと醤油で炒めたらおいしい」という情報があって、やってみることにしました。
使ったのは、真空パウチされているものではなく、生の一株が包装されているものです。
ふつうにバターで炒めると、簡単で、とても旨味があり、あのトロトロした感じはあまり出てこなかったです。
「こんなに旨味があるなら、カレーに入れたらよくない?そもそも、とろみがあるキノコだから、カレーのとろみづけにも、一役買うかも。」
…そう思って、やってみました。なめこ入りカレー。


‘なめこ入りカレーと、自称スペイン風サラダ’
なめこ入りカレー170221
Yo pensé que, sería buena idea de hacer curry con esta seta, es que es pegajosa, así que puedo espesar la sopa de curry con esta seta. Pero, supo más a la japonesa que con otras setas. Aunque fue rico, pero eso no fue perfecto.A la proxima vez, voy a usar champiñones. Los champiñones son perfectos para hacer curry.

おいしくなくはないけど、なんか、違う…。カレーの目指すとろみは、なめこが持っているとろみとは、全く別のものでした。
なめこは、やっぱり、すっごい「和風」なヤツだった。
カレーを食べながら、
「こいつは、やっぱりカレーうどんだよ。」
と思いました。カレーうどんに入れたくなるとろみと食感なのです。
やっぱり、カレー(ごはん)には、マッシュルームとか、別のきのこだな。

後日、残ったカレーソースをうどんに入れると、やっぱりしっくり来ました。
そんなわけで、今後、カレーになめこは入れないと思います。不味くはないけど、ベストではなかったです。
でも、なめこのバター醤油炒めに、カレー粉を振ってみるのは、次にやってみたいと思います。

| クッキング mi cocina | 19:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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