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フェンネルを買ってみた

‘買ったフェンネル’ 
フェンネル180121
Compré esta verdura. Se llama hinojo? No se ve mucho por acá, por eso lo compré. Pero no sé que hago con él.

近くのショッピングセンターに買い物に行き、お目当ての物はなかったものの、そこの生鮮食品売場でめずらしくフェンネルに出会いました。この冬は野菜の値段がすごく高くて、サラダや鍋もどうしようかと悩みがちですが、このフェンネル、税込みで140円しないくらいでした。冬の野菜じゃないような気がするけど安かったな。それで、何を作るか無計画のままに購入しました。
さて、どう料理しよう。


‘育てているディル’
ディル1801
Ahora estoy criando eneldo. Debido a que planté semillas en el último otoño muy tarde, no crecen mucho por el frio.

こちらは、フェンネルと同じ仲間、11月下旬に種をまいたディルです。野菜を育てるなんて、ずっとやってなかったんですが、欲しい時に気軽に使いたくて、今面倒を見ています。
秋まきのほうが、長い間楽しめるという情報を聞いたので、秋にまきましたが、11月は遅かった。忙しかったり、他に用事があったりして、この種を売っている種苗店を通りかかる機会がなく、ようやく11月下旬に買ったら、蒔いたとたんに寒波がやってきました。えっ、お天道様、わたしが種まくの、見てた?それきり秋らしい日和がやってきませんでした。(TT)
そのためか、12月中旬くらいから、いつ見てもこの大きさのまま。育たない子です。この様子では、今年、さらに春まきしたら、それらが追いついて、結果全然変わらないんじゃないですかね。じゃあ、寒い冬に面倒見てたの、なんだったんだ?っていうことになりそうですね。
…でも、ある程度大きく育ってくれればそれでいいです。欲しい時、お店に売ってないので、ぜひ茂らせて、欲しい時に使いたいんです。

| 日記・つぶやき diario | 23:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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 情報か物語か2(絵を描くこと)

日の出前20172

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 「情報」は、消費の対象でしかなく、古くなったら捨てられる
 「物語」は、わたしのために準備されたもの。読んだ後は、もう読む前に
 戻れないようなもの

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前回、この言葉で、以前から自分の中にあったモヤモヤが説明でき、すっきりしたという話を書きました。
今回は、消費の対象になる絵と、物語としての絵の話を書こうと思います。


とある印刷会社で数年経ちました。(今後のことはわからない)
紙面を組んでいると、イラストが必要になることも多いです。
この職場に来てしばらくは、慣れていないせいもあって、会社にある素材集の場所がわからなかったり、フリー素材イラストのサイトもたくさん知らなかったりで、でも、最悪自分で描けるから、そんなに不安はなくて、どうにかこうにかやっていました。
でも、時が経つにつれ、フリー素材イラストを使うことがどんどん増え、オリジナルで描くことはどんどん少なくなりました。扱うチラシやパンフなどの物件によって、いろんなテイストのイラストや写真があるべきだし、何よりめまぐるしく消費される感がすごくて、自分の絵にこだわる意味があまりないことが多いのです。自分で描くのは、ある程度サイクルが長くて思い入れのある物件や、テーマが特殊でフリー素材にはないものなどです。

先日、わたしのオリジナルカレンダーの御礼をブログで書きました。その中で「職場の仕事で作るのと、自分のプライベートで作るのとでは、意味が全然違う」と言いました。仕事で求められるイラストと、プライベートで作るイラストの意味が違うことは、以前から感覚的にはわかっていましたが、どう違うのか、意識的にことばにして説明することはなかなかできないままでした。仕事で頼まれたら、それはそれで楽しく描いていたのだし。
でも、今のような状況になって、冒頭の「情報と物語」の文を見て、「そうか。それだ。説明できるな。」と思いました。

やっぱり、仕事では「商業的な目的が伝わってなんぼ」なので、端的に理解できる情報イメージが必要なんですよね。フリー素材イラストの世界の中に、有名なイラストレーターもいますけど、その人のイラストって、やっぱり「情報」としての描き込みと省略が巧いなぁ、と思います。あと、汎用性が高い。
対して、商業用でない、個人の作品として描いたものは、軽いイラストから、芸術作品に至るまで、少なくとも作者の頭の中には物語的なものがあると思います。それを見る側が共感するか否か(=「自分にとっての物語」を感じ取るか取らないか)で、評価が分かれることになるんでしょうね。
ここ数年、特に思うんですが、昔よりもっと、「物語性」に人々は惹き付けられているような気がします。単なるきれいさやかわいさじゃなく、何か物語のエッセンスがあると、自分の記憶の切れ端にむすびついて共感しやすくなり、自分のものになりやすいんでしょうね。(わたしの場合、毎年のカレンダーの題材を考えるとき、そのへんを考えると、ほんとに悩むことになるんですけども。)
消費される情報の量がおそろしく増えた今、そっちとは対極にある方に惹き付けられるのかな。塩せんべいばっかり食べてたら甘いお菓子が欲しくなるみたいな。

また、この2つを扱うお金の価値とでもいうんですかね。それも大きく異なります。
二十数年前なら、情報としての絵も、それなりのお金のやりとりがあったと記憶していますが、今となっては、当時よりはるかに素晴らしいのがタダで手に入る時代になってしまいました。何時間もかけて起こした絵が、ほとんどお金にならないです。情報的なイラストの世界に流れるお金はものすごく縮小してしまいました。
それでも、少しは需要があるのかな。きっとフリー素材サイトにタダで提供しているイラストレーターは、それを足がかりに、有料の注文を取ることを目指していると思います。(でも、副業的かもしれない)
物語としての絵は、「わたしのために準備されたもの」と思わせるものなので、そうと認められれば、お金が発生するときは、もっと大きくなると思います。いつも自分のスタイルで、ギャラが高いイラストレーターさんがいたら、こっちのカテゴリだと思います。
物語としての絵を描いて、認められた実感の持てるギャラ…ウットリですね。でも、こっちは、差し迫った需要がないあかの他人に、ビビッと電流を走らせないと認められないのだから、どんだけ難しいか。

ここまで2つの違いを言いましたが、置かれている場所は違っても、絵は絵なので、商業用として消費される絵やイラストの中にも、時にはそれが後に「作品」として残ることがありますよね。それは絵の力というか、見る人の多くが、絵の中に物語性を見いだしたのだろうと思います。
あと、さきほども言ったように、最近は、ますます人々が物語性に惹き付けられているせいなのか、情報である広告にも、物語性をまとわせることが多くなったように思います。テレビCMを見ていると、こちらに記憶をリンクさせようとするストーリーが多いかなと。そのほうが印象に残って、結果情報を伝えられるんでしょうね。個人的には、80年代〜90年代前半とかによくあった、ビジュアルセンス重視・不思議な印象を残すCMとかも好きでしたけどね。

2回にわたり、歴史と絵のことについてたくさん描きましたが、情報と物語に分けて分類できることって、これだけではないような気がします。誰かと同じ話をしていたはずなのに食い違うことがあったりしたら、この2つを出してあてはめてみる価値がありそうです。

もしここまで読んでくださった方がいたら、ほんと疲れさせましたね。ありがとうございます。

| 日記・つぶやき diario | 00:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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情報か物語か1(歴史と文学)


20171217夕暮れ


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 「情報」は、消費の対象でしかなく、古くなったら捨てられる
 「物語」は、わたしのために準備されたもの。読んだ後は、もう読む前に
 戻れないようなもの

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この言葉は、ずいぶん前になりますが、Eテレ「100分de名著」の、「歎異抄」に出てきたものです。
一昨年前に放送があり、昨年再放送がありました。どうやら人気があってアンコールされたみたいです。
なかなかおもしろいお話で、浄土真宗の考え方を、少しはわかった気がしたものですが、なぜかブログにも感想などを記録しておらず、そのままにしてしまうところでした。宗教本について、上手く伝えられないのにいろいろ書くと、あたかも信者がなにか独り言を言っているように思われそうかな、と思ってやめたのかもしれません。

そのホームページの中に、こぼれ話がありました
歎異抄の奥書には、「仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、安易にこの書を見せてはならない」という蓮如の言葉があったため、プロデューサーさんがこの本を番組化するかどうか迷っていたけれども、釈徹宗さんの「情報と物語の違いの話」がヒントになり、番組化を決定づけることができたというものです。
その違いというのが、上記の文です。

これには、わたしも急に目からウロコが落ちたような気持ちになりました。
これまで長い間、なんとくわからなくてモヤモヤしていたいくつかのことが、「情報か、物語か」どっちに捉えるかで、説明できると思ったからです。

特に、「歴史について」と、「絵を描くことについて」、モヤモヤしていたんですよね。


まず、歴史について。
学校で歴史を学んでいたころは、好き嫌いは別にして、なんでそれを学んでいるかと言ったら、過去を学んで未来に活かすための勉強だと理解していたのだし、習ったことはテストに出るから覚えるのでもあり、それは「情報」として歴史を捉えていたのかなと思います。
そして、「歴史って、いつも勝者のストーリーだ。それ以外は敗者として消えてしまう。」と思っていました。
でも、じゃあ、それに対して、敗者を拾い上げたものはないのか?
考えて、それが文学かな?と思いました。もしかしたら芸術も、そっちのもあるかも。負けたことがあってこそ、「物語」は深まると思う。勝ってるヤツのお話なんて、物語としては、およそ、おもしろくもなんともないし、たいして参考にならないことばかりです。(ただ、勝ちたいヤツが「情報」として、勝ち組ストーリーを欲しがるというのは、ある。)
また、同じ歴史といっても、歴史を取り上げた「ドラマ」にはがぜん面白ものがあります。それは、自分の何かを投影できる「物語」だからだと思います。
小さな発見をした気がして、なんだか嬉しくなった、目からウロコでした。


さて、もうひとつ、「絵を描くこと」について「情報か物語か」の話は、また改めて書くことにします。

| 日記・つぶやき diario | 15:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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呉空襲と幼い母の話3(生家跡と本通)

前回のつづきです。
「お屋敷」の位置がわかったので、母は小さい時分のことを思い出しながら、北に歩いていきました。
「たばこ屋の松本さんちがここらへんにあって…今は道幅が広くなっているけど、当時はこの道の半分くらいまで、家並みがあったんじゃないかね」

‘ここらへん?’
生家跡20170923

自信がないようでしたが、この飲食店あたりが生家だったのではないかと。(しかし、後で母は気になってもう一度来てみたんだそうです。そして、飲食店となりのマンションの場所が、当時の生家だったと確信を得たとのこと。)ここで誕生したんですね。
今となっては、本通の向こう側、商店街側にある「ヒラオカ時計店」くらいしか痕跡が残っていません。


‘シネマ跡’ 
シネマ跡20170923


今は眼鏡市場になっています。わたしの記憶にもうっすらあり、生まれて初めて「映画」を見た場所でした。昔は、派手な絵看板が目立っていたんですが、いつのころからかなくなったので、映画館もずっと前に閉館したんだと思っていたのですが、調べたら、つい最近までやってたみたいですね。恥ずかしながらそれも知りませんでした。


‘母が、入れる防空壕を探しながら、頼ろうとした知人宅の場所’
知人宅跡20170923

空襲の夜、はじめに入るのを断られた壕から、知人の家はすぐ近くでした。その家は、掛け軸などを売る店だったそうで、たぶん、親の職業の関係で馴染みがあったのだろうと思います。
この家の壕に入るかと尋ねられ、
母の姉「どうする?」
母「いやだ」
…とかやっているうちに、ここの夫妻も二河に行く決心を固め、一緒に逃げることになったそうです。
今はとても新しい建物になっていました。グーグルのストリートビューで見たら、これまた全然違う建物だったので、どんどん新しくなるなぁと思いました。ストリートビューって、時々、時間差でもうそこに存在しないものが写ってて、なんとなく切ない気分になるときってありますよね。

ところで、母の話を聞いているうちに、勘違いしたまま原稿を書いていた部分もあったことがわかりました。
呉空襲の話をするときはいつも、すぐ上の姉と一緒に行動した話ばかりだったので、母と祖母は初めから別行動なんだと思っていました。が、最初は、みんな一緒の防空壕に入ったんだそうです。それが、先日書いた寺西公園の場所の防空壕でした。
でも、だんだん煙が入ってきたので出ることになり(出なかったおばあさんのことを母は憶えている)、逃げる人にまぎれているうちに、祖母や姉たちとはぐれ、子ども2人で逃げることになったということです。
「えーっ!わぁ、うそ書いちゃったよ!」
と言ったら、
「ええわいね。本人ももう憶えてないくらいじゃ。」
と言って笑ってましたけど。…ていうか、早く教えてくれ。心残りになるでしょうが。

その他わかったこと:
・窓から火が勢いよく出て燃え盛る本通小学校を見たとのこと。
 逃げた経路から見て、おそらく、シネマのところから見えたのではないかと。
・姉(三女)が、自宅を出る際、暗い玄関ではきものを掴んだら、
 高下駄だったけど、もう仕方ないのでそれを履いて逃げた。
・家族は、6月まで笠岡に疎開していたが、呉に戻って1週間ほどで
 この戦災に遭った。
・母の長姉は、当時結婚してすぐ近くに住んでいた(お勝手の空間を共有)
 空襲のあと、すぐに神奈川へ旅だった。
・祖母は、当時身重で、結局終戦直前に出産した。空襲後、家族は祖母の
 実家に身を寄せていたが、また空襲の恐れがあるので、防空壕が
 目の前にある近所の家の部屋を貸してもらって出産した。
・9月から新学期で転校したのだが、祖母が出産後すぐの上多忙だったため、
 学校に必要なものを揃えてもらうのも大変だった。現在とちがって、
 着る服、筆記用具入れ、カバンなど、すべて着物や帯を解いて
 作らなければならない状況だった。



| 日記・つぶやき diario | 00:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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呉空襲と幼い母の話2(生家跡を辿る・お屋敷跡)

時間が経ってしまいましたが、今年の墓参りのときの話です。
夏は母の体調があまりよくなかったことから、お盆はやめて、9月の彼岸に行きました。
無事に墓参りを済ませ、帰りにお茶でも飲もうかということになったので、
「エーデルワイス(パティスリー)でお茶でもする?」
とわたしが提案して、店の前でタクシーを降りました。
すると、母は周囲を眺めていたかと思うと、くるりと店に背を向け、あたりを見回しながらスタスタと歩き始めたので、「もしかして幼い時の記憶が?」と思い、後をついていくことにしました。このあたりは、母の生家があった場所に近いのです。
彼女の話によると、今は道の幅が当時より倍以上広くなっており、建物も新しいものが増え、印象もずいぶん違って見えるそうで、痕跡を探すのが難しそうでした。旧三和銀行は影も形もないし…でも、国道を隔てた商店街入口に「三和通り」という表示があったので、おそらく、その十字路の東側マンションの場所が銀行だったのではないかと思うのですが。

あまり生家につながるヒントがなさそうだったので、スマホの地図を頼って、母を寺西公園に誘導してみました。ここには戦災者の慰霊碑があるのです。それは情報としてだけ知っており、わたしも訪ねるのは初めてでした。
すると、公園入口の下まで来たところで、母が「あっ!」と言いました。


‘公園入口の門’ 
石柱が前に立っていて、文字は「呉市戦災遭難者供養塔 寺西児童公園地」かな?
石垣の上が公園
寺西公園の門

この公園こそが、彼女が「お屋敷」と呼んでいた家の跡だったのです。
当時からこの門はあり、その門扉で隔てられこの上には入れなかったけど、大きな桜の木があって、春には花びらを小径に散らしてきれいだったそうです。一人遊びに慣れていた母は、よくここに来て、花びらを糸に通したりして遊んでいたとのこと。


‘門の裏側’もともと、お屋敷の門柱はレンガでできていたのだろうか。当時はもうコンクリだったかな。
寺西公園の門の裏


‘石垣と自治会館の隙間’ 
この隙間の面に防空壕入口があったそう。
門のそばの壁

呉空襲の時、母が初めに入った防空壕です。今はその入口を見ることはできなさそうでした。


‘公園に入ったすぐの並木’ 当時は立派な桜の木があったとか。今は桜ではない。
公園の木


‘供養塔地蔵菩薩像’
戦災者慰霊の観音像

‘説明の碑’
戦災者慰霊碑の文言

和庄地区にある3つの慰霊碑のことは、以前、原稿を書くために調べてその存在を知りました。が、そのうちのひとつが、空襲の日に母が初めに入った防空壕の場所だったとは、わたしにはちょっとショッキングで、疑問とともに、より深刻な想像も伴いました。

・以前の母の話では、行こうとしていた防空壕より近くてまだ安全そうだった印象だったが、そうじゃなかったのか。(もっと悪い状況だった?)
・ここに慰霊の観音像があるってことは、ここでも相当戦災死者が出たんじゃないのか。
・ここのお屋敷の主は、戦後どうしてここを手放したのか。
・そして、土地を売ったとしても、どうして公共の公園になったのか。すごく気になる。

冷静に碑の文章を読んでみると、観音像は、この場所というより、呉空襲全体の遭難者のために建立されたようなので、ここが特別にというわけではないかもしれないですけど、それはわかりません。

とにかく、この場所で母の記憶が甦ってきたので、さらに生家を探して歩き出しました。
つづきます。また後日。









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