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100分de名著「ディスタンクシオン」

“今年の正月花” 年越えたわ…
蘭と百合202101

テキストを読むのが遅いので、今頃になってしまいましたが、旧年最後のテーマは、ブルデューの「ディスタンクシオン」でした。100分de名著で取り上げられなければ、この本と著者の存在なんて、知らなかったと思います。ディスタンクシオンとは、フランス語で「差異」のことで、趣味嗜好が、身分階級、格差にどのくらい与しているのか、というお話でした。
本書は難しいらしく、たぶん読めないと思いました。フランス人って、すごく難しげに書く人が多いそうなんですよ。テキストは読んだので、その内容を忘れないため、ざっとまとめます。


◆ 私という社会 -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- --
・自分が、好きだから選んだと思っていた趣味や好みが、実は学歴や出身階層によって傾向付けられている。
・幼少期から、言葉遣い、身のこなし、趣味趣向といった形で植え付けられた性向(ハビトゥス)が存在する。
・出会って「稲妻の一撃」に遭ったような衝撃的な感動さえも、偶然ではなく、受けとめる素地があったにすぎない。
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ひらたく言えば、どう育ったかが、その後その人の趣味にまでどんなに影響を与え、利益・不利益を生み、格差につながっているかという話でした。これは別に、封建社会の話ではなく、ふだん意識してなかったけど、今も連綿と続いてる問題でした。
たとえば、わたしが財閥のお嬢様と、好きなものの話をしたら、世界が違いすぎて、おそらく数分持つ気がしない。文化的な素養の差は比べようもない。でも、思い入れのある趣味嗜好って、いずれの社会的身分の人にも、そこに自分のアイデンティティの一部があったりするだろうに。いやぁ、身も蓋もない話だなぁ、と思いました。


◆ 趣味という闘争 -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- --
・「これが好きだ」と選んで取り上げる趣味嗜好は、逆にそれ以外の物を否定することになる。
・人々は他者よりも少しでも優位に立とうという「卓越化」を目指して無意識に闘争し合っている。自分たちの好き嫌いや趣味を互いに押しつけあっているといってもよい。その闘争が繰り広げられる場のことを「界」という。
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テキストでは、この「闘争」を、「必死でがんばっている」の意味くらいに思ってくれ、とのことでした。好きなものを考えるのって楽しい場だし、闘争し合ってるといっても、それは無意識、無自覚なので、そのことばには違和感がありますよね。
でも確かに、同じ「界」に、自分と似たような人を認識すると、主張のひとつもしたくなる、ということはよくあると思う。無意識に闘争本能が働いているのかもしれません。
「他人よりつきぬけているオレ」とか「他人とはひと味違うオレ」を見せたくなるってことですか。

趣味の押し付け合いって、不毛なので、わたしは避けたいと思ってます。だいたい、わかってもらえないのが普通だし。年取ったので、押し付け合う体力がなくなったというのもあるかな。
そういえば昔、ネットで誰かの言葉で、(一字一句憶えてるわけじゃないけど、)いい趣味を語ることは、始末が悪い(だったかな?)、または暴力的な面があるだったかな?そういう負の側面があることを忘れるな、みたいな文を読んだことがあります。ちゃんとメモしとけばよかった。趣味人がまわりに与える、悪い面を考えもしなかったから、ハッとして、でもそうかもなぁ、と思ったんですよね。


◆ 文化資本と階層 -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- --
・私たちは身振りや言葉遣い、趣味、教養といった体に刻み込まれていく文化能力をも相続していく。
・そのように相続されたもののうち、経済的利益に転換できるものを「文化資本」と呼ぶ。
・文化資本は経済資本ほどはっきりとは目に見えないが、蓄積することで学歴や社会的地位、経済資本へと変換可能になり、大きな利益を生む。例えば、机に座るのが苦にならない環境や、参考書があったりすること。
・客観的なチャンスが存在しないところでは、主観的な野心もはじめから存在しない。
・ハビトゥスは、自分が所属する場での客観的チャンスがどのくらいあるか瞬時に、身体的に把握する実戦感覚を備えている。
・幼少期から、言葉遣い、身のこなし、趣味趣向といった形で植え付けられたハビトゥスは、行為の中に蓄積された過去の履歴なので、生まれつきではなく、知能とも関係ない。
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これってすなわち、後天的にかたち作られる、将来受け取れる文化的な栄養の容れ物の原料ということかな。


◆ 文化再生産 -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- --
・学校は、家庭で得られなかった文化資本を得られうる場で、本来階級をシャッフルできる機会のある場所だが、同時に今の階級を再生産してしまう場所でもある。
机の前でじっとしていられない子は、その習慣を自然に身につける環境になかったので、どうしてじっとしていなければならないのかわからない。
一方、幼いときから習いものなどして、机にじっとしている態度を身につけている子どもは、それが苦ではないのだから、それは自然と成績に結びつきやすい。
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この本には、「それで?ハビトゥスが生み出す格差を薄めるにはどうすれば?」という答えがなさそうなので、本当に身も蓋もなく、絶望感だけが残りそう。
それでも、この構造と構造の生成のしくみを明らかにはしてくれているので、家庭と学校教育現場の大人がそれを知り、意識するだけでも、少しは状況がマシになりませんかね。
あと、思ったのは、文化再生産されている現実を考えれば、容易に「自己責任論」を出してくるのは、やっぱりフェアじゃないよな、ということです。アドバンテージがない者に対して、お前の責任だろうと軽々しく言えますかね。

このテキストを読んで、自分の子ども時代も振り返ってみると、貧しい家だったとは思うけど、あのころの両親や近所の大人って、自分たちが幼少時代に戦争の影響で経験できなかった文化的なことを、子どもには体験してほしい、という願いが強かったんじゃないかなぁ、と思い出されます。
美術館やハイキングに連れて行ってくれたりとか、絵の具セットやピアノを買ってくれたことは、後にその分野で爆発的な才能の開花はなかったにしても、技術的なこと以外にも、まちがいなくその背後にある文化知識やセンスなど、そこで得られる世界を教わったということなんですね。
出来る範囲で、わたしを今の大人にしてくれたんだなぁ、と、このテキストを読んで、なぜか両親への感謝の念がこみ上げました。
この本は、ハビトゥスの差が生み出す階級の差のループを断じた内容なので、そういう本じゃないんですけどね。

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100分de名著「共同幻想論」を読んで

“夏のテキストだったんですが、秋に読了” 
右は11月から始まる「伊勢物語」のテキスト
100分de名著2020


Eテレ100分de名著「共同幻想論」(吉本隆明)のテキストを、夏からちびちび読んで、やっと読み終わりました。

吉本さんの言う「幻想」とは、わたしたちが「認識」とか「価値観」だと思っていることを指していると思われました。
先の戦争が終わると、戦前の日本の常識があっという間に覆され、これまでお国のために死ぬつもりだった復員兵たちが、今日はもう、嬉々として食料を持ち家族の元に帰ろうとしている。そして何もなかったかのように、平和を謳歌する人々。
著者が、なぜこのようなことになったのか、そもそも国家とはなんなのか、を古事記や遠野物語など古文献における日本文化や思想から、分析していった本、「共同幻想論」。
それの解説テキストでした。

解説ですら、わたしにはもう難しくて、うまくまとめられないのですが、わからないなりに、とても印象に残ったので、ちょっとここで印象などメモしておこうと思います。でないと、そのうちテキストを読んだことすら忘れそうだから。


戦前の教育を受けた者にとっては、敗戦後の大転換によって、それまでの認識が幻想になってしまったにちがいなく、著者がはっきり「幻想」と表現するところに全体主義に対する皮肉も感じるし、今の社会の、わたしたちの社会常識や政治のあれこれも、実体ではなくて幻想でしかないんだ、という警告のように受け取れました。
そういえば、同じ番組の「100分de ナショナリズム」(特集)をやったとき、「国家とは幻想だ(アンダーソン)」って、言ってましたわ。(その著書 想像の共同体…読んでないけど。)

このテキストを読む前に、河合隼雄の「神話と日本人の心」を読んでいたので、さらにここでも古事記の解釈に触れることになり、心理学から見た古事記とあわせて、おもしろいなと思いました。
いつも、寝ながら切れぎれに読んでしまい、理解度が不十分なので、もう一度読んだら、古事記についてもメモしたいなとは思っています…(いつになることやら)

印象に残ったこと

●やましさと祭礼
遠野物語についての箇所で、先人に対する「やましい気持ち」から、祭礼が生まれ、ひいては神が生まれる、ということ。
どう考えても、過去の世代のほうが、自分たちより苦労し、その恩恵を現在の自分たちが受けているには違いない。そこから生じる「やましさ」から逃れたい。その方法が、祭りや儀式だってことです。祭り上げるって、そういうことなんですね。

●母系社会から父系社会へ
古事記の後半から、もとは母系であった社会が、だんだん父系になっていったと読み取れる。
悪い事をした者があれば、母系社会では祓いや清めが重要で、そのために悪い人を追放するのだったが、父系では、悪い者に刑罰を与えることになった。
法の誕生=国家の誕生

●共同幻想・対幻想・個人幻想の関係
たぶん、
 共同幻想=集団の人間関係で、共通して抱く価値観
 対幻想=家族単位、擬似性的関係を持つ者で共通する価値観
 個人幻想=一個人が抱く価値観

ということと解釈していますが、対幻想がわかりにくかったです。擬似性的関係って…ピンとこない。
夫婦だけなら性的関係ってわかるんだけど、ほかの家族も擬似性的関係なんだそうで、つまり、相対する人への嫉妬や好き嫌いの非合理的な感情のことをさしているんだそう。共同体の中での感情も根っこは同じで、自分のいるコミュニティーの人々をまるで家族のように思ったり、お前はもう仲間じゃないとか、そういうふうなことは、対幻想からきているのだそう。

共同幻想からは、同調圧力が生まれる危険性がある。
一方、個人幻想は、独善に陥る危険性がある。
自分の考えが間違っていないか、他人と確認しあうこと。(個人幻想を共同幻想に照らし合わせる)
共同体のルールが、個人を飲み込むかもしれないこと。(政治家や啓蒙家が、個人を群れや数としか捉えず、啓蒙さえすれば飲み込めると踏む)
この2つを、「関係の絶対性」と呼ぶ。
共同幻想に個人がうち勝つのは難しいが、ふだん沈黙している生活者ひとりひとりに可能性がある。ひとりひとりの「それはおかしいんじゃない?」という考えが大事。
ざっくりしすぎですけど、こんな内容かと。

よくわかったわけではないけど、巨大な権力と戦うには、最終的には個人しかない。というのは、なんかわかる気がする。
こういうの、以前同番組でやった「力なき者たちの力(ヴァーツラフ・ハヴェル)」のときにも言っていたように思う。小さな個人でも、努力して周囲の空気を少しずつ変えることができる、そんなことを言っていました。
あと、国家も絡んでくる複雑な「権力vs個人」問題のとき、個人では弱小すぎるので最初は政治に頼ったりするけど、最終的には個人の力が動かしていくのかな、と思ったりしています。
「苦海浄土」の石牟礼道子さんが、「チッソvs被害者」の構図で、個人で戦わなければダメだった、と書いていたり、米大統領の広島訪問がようやく実現した大きな理由が、原爆死した米兵遺族のために個人でされていた被爆者の方の活動が、結局は大きかったことなどが頭に浮かびました。


すごく難しかったので、本書を読むことはたぶんないと思うんですが、このテキストだけでも、また読み返す価値はあると思いました。
テレビで、もやっとする政治系のニュースが流れるたび、最近は「これも幻想なんだな」と言ってみるのが、マイブームになっている今日この頃です。

| 日記・つぶやき diario | 16:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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9月になって

“以前、道に落ちてたほおずき”
ほおずき2016
Ya he vuelto a la clase de español! Lo dejaba de esta primavera al agosto, por el miedo del Covid -19.
Aunque no ha terminado esta epidemia en Japón, pero no podemos parar todas las cosas. En Hiroshima, el número de los pacientes queda desminuido.

9月になったけど、暑さはお盆以降のほうが増している感じだったので、秋も遅くやってくるのかもしれません。もうすぐ大きな台風が来るので、その後少しは秋らしくなるでしょうか。

この週末、久々に、スペイン語クラスに戻ってみました。
春以降、ぜんぜんやっていなかったので、もともとたいしてできない能力の上、さらにレベルは落ちてると思いますが、人に会って、会話するというのは、やっぱりいいな、としみじみ思いました。
広島は、コロナ患者の人数も、ちょっとおちついた感じがでてきました。語学はリスク高いと思っていたけど、とりあえずこの半年、教室で患者は出ていないし、わたしもこのまま休会してたら退会になっちゃうし。今勤務している会社の営業職が、ぜんぜん出張をやめる気配もないし、それならまあ、わたしだってそろそろいいかなと思った次第です。この状況に終わりが見えないとなると、いつまでも立ち止まってもいられないんだろうなと思います。

授業はリモートでも受けられるとのことでしたが、リモートで受けるといっても、リアル授業の中にリモート参加するというものなので、いまいち、気が進みませんでした。ただ、やっぱり教室に行きたくない状況になったとき、仕方なくリモートという道はアリかなとも思ったので、一度、リモート参加者がいる授業を受けてみたいと思っていました。

わたしのクラスに、その該当者はいないのですが、復帰した日にたまたま、他のクラスの人がひとり、振替授業ということでリモート参加して来て、思いがけず、どんな感じなのか知ることができました。

結論からするとですね…
やっぱり、自分はできるだけリモート参加は避けたい、と思いました。参加された方は、とても明るく開放的な方だったけれど、それでもやはり、多少の「おいてけぼり感」は否めないと思いました。これがわたしだったら、それがもっと浮き彫りになるはずで、さらには聞き取り能力が低いのに、生でない音はもっと聞き取りにくいし。
リモート授業をやるのだったら、授業内容もそれなりにシステマチックにしたほうがよいと思うけど、わたしの通ってるところは、リモート参加のための前準備をもっとやろうとか、たぶん考えてないし、それは、リアル生徒とリモート生徒を一緒くたにやっていることもあり、毎回生徒の構成も変化するからなんだろうなー、と思います。

学習に限らず、リモートが4人以上だったら、司会をやる人を置いて仕切ってまわしたほうが、うまくいくような気がします。私の場合だけかもしれませんが、おいてけぼり感を感じないで参加できたことはないんですよね。離れたところにいる人の顔が見られるのは、とても嬉しいんだけど。
コロナがなければ、こういうことにも気づかなかっただろうと思いますが、はやく終息して、会話の支流でおおっぴらにおしゃべりできる日が来てほしいなと思います。


| 日記・つぶやき diario | 17:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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梅雨明けたらもうお盆

今年は梅雨明けが7月末日で、それからもカーッと晴れる日は少なく、春霞のように霧があったりして、やっと夏らしくなったと思ったら、もうお盆でした。

変化の少ない、ここ最近の生活として印象的なのは、
◆ 7月の全国的な豪雨災害のせいで野菜が高騰したこと
◆ 7月に始まったレジ袋有料化に慣れないこと
◆ 悩ましいコロナ禍の状況
◆ ベランダで育てているトウガラシ、ミツバの生育に変化が出たこと

くらいですかね。

◆ 7月の全国的な豪雨災害のせいで野菜が高騰したこと
もう、毎年どこかですごい災害があるので、野菜が高いという愚痴が消えることはないのかもしれない。野菜好きとしては辛い。ポテサラ論争がネットで繰り広げられていたけど、手作りとか手抜きとか言う前に、じゃがいも、キュウリの値段を見れば?と言いたい。

◆ 7月に始まったレジ袋有料化に慣れないこと
この制度が始まってから、スーパーくらいしか行ってなかったので、あまり問題に気づきませんでした。盆休みに、生活用品や衣料品を買い足すにあたり、レジで「袋はご入用ですか」と言われ、この制度にまだ慣れていないことを思い知らされました。店員に言われてから「あっ、そうだった。」と、カバンをごそごそすること数回。
しかし、これ、お店と客のお互いにとって、けっこうなストレスですね。スーパーみたいに、サッカー台を置いてあるのならまだいいんですけど、小売店や、生活用品や衣料品のコーナーだと、そういう台もないので、早く受け取らなきゃという気持ちと、どこで詰めるんだという迷いが同時に出て、あたふたします。店側も、次に待っている客も、早くどいてほしいだろうけど、台がないなら、レジの場所で詰めるより仕方がない。
このとき、後ろの客から無言の圧力を感じたら、それを「レジ圧」というのだそうです。わたしはラッキーなことに、うしろに誰もいないことがほとんどでしたが、そのうち経験するでしょう。
並んでいる時からもう袋を出して、レジ台に提出して詰めてもらうのが一番早いかな。でも、まだそんなに慣れてない。しかも、買うものによって、適した袋は違うし。例えば、紙を数枚買うのと、バスマットを買うのでは、同じ袋ということにはならないのだった。ついで買いも、面倒だからしなくなるかも。
もう、「袋をください」と言ってしまった方が、なんぼかスマートで良い気がする。廃棄するプラスチックは、もちろん減らした方がよいと思うけど、それなら惣菜容器のほうがもっと問題だと思うし、レジ袋に限って言えば、なんだか店と客の双方にとって、ルーズ-ルーズ(ウィン-ウィンの逆)のような気がしています。

◆ 悩ましいコロナ禍の状況
患者は増えるけど経済活動は止められないということで、わたしの職場の夏は、営業職の出張の季節。週明け、いつも「大丈夫かな」と思って出勤します。わたしは県外に行かないけど、営業職が帰ってくるからです。
休んでいる習い事をどうしようか、いつも月末には気が重くなります。先日、復帰を促す電話があったのだけど、何かあっても、その人がわたしに責任を取れるわけじゃないし、わたしも責任取れない。ただ、このままずっとこの状況ではいられないのも確かだし、何もかもがどんどん億劫になってきつつあるので、やっぱり人はずっとじっとはしていられないものだとも思います。だから、感染した人の、感染する前の行動のこととかあまり責められないと思う。その人にとっての、生きるための精神的なスレスレのラインというのは、自分と同じではないからな。

◆ ベランダで育てているトウガラシ、ミツバの生育に変化が出たこと
梅雨入り前に、トウガラシの苗を買い、また、ミツバのタネを蒔きました。ベランダ菜園の才能がないので、やっぱり今回も成功とは言えないのですが、少しは学びもありました。

“ミツバ” 6月
三つ葉2020-6-1

手前の方が、2週間ほど早くタネを蒔きましたが、ちょっと土をかぶせすぎ、この後あっさり、奥のほうの鉢に追い抜かれます。水はけのいい砂っぽい土を用意しておき、タネを蒔いた上からすこしかぶせるほうが、生育がいいことがわかりました。

“ミツバ” 8月
三つ葉2020-8

雨の時期は、ひょろひょろで葉の色が黄色くなっていったので、もうだめかなと思っていましたが、夏の日差し(…って、もう盆だよ)で、元気になってきました。糸三つ葉みたいなひょろひょろではなく、太く育ててお浸しにしたかったので、この傾向はよいことだと思って様子を見ています。お浸しの量にはならなさそうだけど。


“トウガラシ(八ツ房)” 6月
トウガラシ2020-6-1

たまたま鉢で売られているのを見つけて買いましたが、梅雨入りとともに、アブラムシ(アリマキ)害に悩まされることになりました。それで、アブラムシでいっぱいになった主軸の芽を摘んでしまったのだけど、我慢すべきだったかも。今年は雨の時期が長く、その間ずっと毎朝アブラムシを退治する作業が続きました。やってられないよね、と思いながら。

“トウガラシ(八ツ房)” 8月
トウガラシ2020-8-1

夏本番という日差しになると、急にアブラムシの勢力が落ち、若葉と花芽がどんどん出て来ました。やっぱり、早く梅雨明けしていれば、あんなに悩まなくてよかったのかも。
この苗すべてを野菜と捉えていて、若い青い実がついたあたりで、葉唐辛子の佃煮にしたい考えです。ちょっぴりしかできなさそうね。

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美容室との相性

“ヒマワリ、百合、トルコギキョウ”
ヒマワリなど2020


先日、いつもの美容室に行き、髪を整えてもらいました。
わたしの髪はクセの扱いがとても難しいので、簡単にはお店を変えられません。実家近くの美容室にもう20年以上通っています。
初めて今の店に行ったとき、美容師から
「これ(クセ毛)、いままでうまくやってもらえたことなかったろ。」
と言われて、本当にその通りだなと思いました。それまで、ずっと適当にされてきたのです。
その美容師の先生とは、趣味も合わないし、会話もそんなに噛み合わないのですが、「ほんとにこの部分、嫌だねー。」とか、時折ブツクサ言いながらも、ちゃんと「どうにかしてやろう」と向き合ってくれるので、これまで通い続けています。仮にどこか他の店を探すとなると、また1から髪質と処置を探ってもらわなければならないことを考えると、少々遠くても、この店に来た方が早いです。
あとは、パーマ+染めの料金で、カットとシャンプーもやってもらえるところも大きい。ただ、それでもけっこうお値段は張るので、わたしは客の中でも、次回までの期間が長い人だと思います。

ところで、その日、実家に寄ると、母が、自分の通っている美容室について
「1ヶ月はすごくいいけど、2ヶ月持たない。これでは、自分の予算を超えるから、もう行かないかもしれない。」
と言いだしました。彼女はショートヘアなので、ロングの人より、持たせるのは難しいと思うのですが、
「もっと前髪を短くしてほしいのに。」
と言いました。
彼女が以前通っていた店では、カッコよくはないのものの、かなり短くしてもらって3ヶ月くらい持たせてたんですよね。その店がやめてしまったので、妹の紹介で美容院を変えたのだけど、そういう不満が出て来ました。まあ、あんまりおしゃれな人ではないんです。
「じゃあ、はっきり『もっと短くしてくれ』って言えばいいじゃないの。」
と言ったら、先生にもやりたい方向があるみたいなので、言えない、と。
そして、極め付けは
「もう、床屋に行ってこようかな。ツーブロックみたいに、側面をカットしてもいいな。」

「……」(絶句しています。)
うーん、ツーブロックって、床屋なんですかね。美容室ですかね。やってる人を店で見たことないので、あれ?と思ったけど、女性だったら、美容室でやってもらうんじゃないですかね。男性は知らないけど。
ただ、どっちにしろ、ツーブロックにしたって刈り上げにしたって、母が思っているより繊細なとこあると思うんですよね。次回カットする時期は、却って早くなるんじゃないのか。そのへんを、すごく簡単に考えていそうなので、返答に困りました。
まあ、結局どうするかは彼女次第なので、わたしは次回、実家に帰った時に確認するだけです。床屋に行ったら妹が怒りそうだな。

以前、友人と「どういう美容室に行くか、行きたくないか」をおしゃべりしたことがあったけど、その時、それぞれがわりとちがう価値観で選んでるもんだな、と思ったことがありました。出来上がりのスタイルや経済性だけでなく、いろんな要素があるんですよね。
さらに、このコロナ禍で、美容師曰く、いつものお客さんも、外出の頻度とか減っているから、たとえば1ヶ月ごとだったのを2週間先延ばしするだけで、売り上げは30パーセント減るんだそう。誰のせいでもないから仕方ない、とも言っていました。わたしの場合、普段が、これ以上先延ばしできないくらいに延ばしているので、コロナは関係ないんだけど。(こんな奴ですみません)
とにかく、この仕事も大変だな、と思ったことでした。

| 日記・つぶやき diario | 13:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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