‘ ネアンデルタール人は、やっぱり‥‥’

Estoy pensando que los hombres de Neanderthal podian estar feliz, al leer los informaciones sobre ellos. Me imagino que quizas no se hubieran comunicado por muchas palabras sino por las expresiones de accion.
Entonces en una manera, ellos pudieran hacer comunicacion mas humana que Homo sapienses de ahora? Ellos tenian mas tiempo libre por lo menos que tenemos de ahora.
Ah, es dificil de explicaros este tema para mi.
ネアンデルタール人は、やっぱり幸福だったのかも‥‥。
人と人のコミュケーションのことを、ちょっと考えてました。
外国人の友達と、とても暖かい関係が築けたのは、お互いの言葉が完璧じゃなかったのもひとつあるのかな。本来の相性が偶然よかっただけでしょ、と言われればもちろんそうなのかもしれないけど、言葉が完璧じゃないがゆえ、お互いの共通認識が「完璧にわからなくてもOK、時間をかけてOK。」となると、こうも暖かい気持ちになれるものなのかなと、この春ちょっとそう思ったのでした。
じゃあ、ふだんスムーズな言葉でやりとりしている相手にも、こういう気持ちで接すれば、もっとうまくいくんじゃないだろうか、とか、考えてみる。
でも、考えてみると、もうすでにある共通認識を覆すのはなかなかむずかしいとも思う。完璧にわからなくても時間をかけてもOK、って、結局それが許せるってことだものね。これを寛容だとか愛だとかいっちゃうと立派すぎて実現しなさそうだけど、「急がない」ならなんとなく実現しやすそうなのに、現代の生活はとても高速で流れているので、ふだんはそんな悠長なこと言ってられないだろうし、このへんが現代人の不幸なのかもしれず。
はるか昔、ネアンデルタール人は、言葉でのコミュケーションが人間のように緻密にはできなかったらしいと聞いたことがあります。声紋のところが発達してなくて、音色のこまやかな変化による伝達は無理だったとか。でも、そしたら却って濃いコミュニケーションがあったんじゃないかな?などと、万年単位の昔を想像します。(でも、言葉でのコミュニケーションがうまくできなかった結果、滅びてしまったらしいんだけどね。(^_^;)
そして、話はそれるけど、ネアンデルタール人といえばこの春、
脳科学者の池谷裕二さんがおっしゃっていたのだけど、人間は脳を大きくしすぎたせいで、自分の生命の危険の回避よりも論理のほうを優先することができうる動物になったんだって。(くわしくはリンクを読んでね。おもしろいよ。)
で、ネアンデルタール人あたりが、論理と直感それぞれをつかさどる部分に大きな差がないレベルだったんじゃないかというんですね。これを思い出して、ますますネアンデルタール人は幸せな人類だったのかも‥‥と思ったわけです。
でも、もうネアンデルタール人には戻らないし。
コミュニケーション下手の自分と、周りの関係など思ってたら、すごい昔のものまで出てきて、収拾つかなくなっちゃいました。(^_^) とりあえず今は勇気と寛容さ、あとこまめさが必要なんでしょう。言うはやすし、だなぁ。