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呉空襲と幼い母の話3(生家跡と本通)

前回のつづきです。
「お屋敷」の位置がわかったので、母は小さい時分のことを思い出しながら、北に歩いていきました。
「たばこ屋の松本さんちがここらへんにあって…今は道幅が広くなっているけど、当時はこの道の半分くらいまで、家並みがあったんじゃないかね」

‘ここらへん?’
生家跡20170923

自信がないようでしたが、この飲食店あたりが生家だったのではないかと。(しかし、後で母は気になってもう一度来てみたんだそうです。そして、飲食店となりのマンションの場所が、当時の生家だったと確信を得たとのこと。)ここで誕生したんですね。
今となっては、本通の向こう側、商店街側にある「ヒラオカ時計店」くらいしか痕跡が残っていません。


‘シネマ跡’ 
シネマ跡20170923


今は眼鏡市場になっています。わたしの記憶にもうっすらあり、生まれて初めて「映画」を見た場所でした。昔は、派手な絵看板が目立っていたんですが、いつのころからかなくなったので、映画館もずっと前に閉館したんだと思っていたのですが、調べたら、つい最近までやってたみたいですね。恥ずかしながらそれも知りませんでした。


‘母が、入れる防空壕を探しながら、頼ろうとした知人宅の場所’
知人宅跡20170923

空襲の夜、はじめに入るのを断られた壕から、知人の家はすぐ近くでした。その家は、掛け軸などを売る店だったそうで、たぶん、親の職業の関係で馴染みがあったのだろうと思います。
この家の壕に入るかと尋ねられ、
母の姉「どうする?」
母「いやだ」
…とかやっているうちに、ここの夫妻も二河に行く決心を固め、一緒に逃げることになったそうです。
今はとても新しい建物になっていました。グーグルのストリートビューで見たら、これまた全然違う建物だったので、どんどん新しくなるなぁと思いました。ストリートビューって、時々、時間差でもうそこに存在しないものが写ってて、なんとなく切ない気分になるときってありますよね。

ところで、母の話を聞いているうちに、勘違いしたまま原稿を書いていた部分もあったことがわかりました。
呉空襲の話をするときはいつも、すぐ上の姉と一緒に行動した話ばかりだったので、母と祖母は初めから別行動なんだと思っていました。が、最初は、みんな一緒の防空壕に入ったんだそうです。それが、先日書いた寺西公園の場所の防空壕でした。
でも、だんだん煙が入ってきたので出ることになり(出なかったおばあさんのことを母は憶えている)、逃げる人にまぎれているうちに、祖母や姉たちとはぐれ、子ども2人で逃げることになったということです。
「えーっ!わぁ、うそ書いちゃったよ!」
と言ったら、
「ええわいね。本人ももう憶えてないくらいじゃ。」
と言って笑ってましたけど。…ていうか、早く教えてくれ。心残りになるでしょうが。

その他わかったこと:
・窓から火が勢いよく出て燃え盛る本通小学校を見たとのこと。
 逃げた経路から見て、おそらく、シネマのところから見えたのではないかと。
・姉(三女)が、自宅を出る際、暗い玄関ではきものを掴んだら、
 高下駄だったけど、もう仕方ないのでそれを履いて逃げた。
・家族は、6月まで笠岡に疎開していたが、呉に戻って1週間ほどで
 この戦災に遭った。
・母の長姉は、当時結婚してすぐ近くに住んでいた(お勝手の空間を共有)
 空襲のあと、すぐに神奈川へ旅だった。
・祖母は、当時身重で、結局終戦直前に出産した。空襲後、家族は祖母の
 実家に身を寄せていたが、また空襲の恐れがあるので、防空壕が
 目の前にある近所の家の部屋を貸してもらって出産した。
・9月から新学期で転校したのだが、祖母が出産後すぐの上多忙だったため、
 学校に必要なものを揃えてもらうのも大変だった。現在とちがって、
 着る服、筆記用具入れ、カバンなど、すべて着物や帯を解いて
 作らなければならない状況だった。



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呉空襲と幼い母の話2(生家跡を辿る・お屋敷跡)

時間が経ってしまいましたが、今年の墓参りのときの話です。
夏は母の体調があまりよくなかったことから、お盆はやめて、9月の彼岸に行きました。
無事に墓参りを済ませ、帰りにお茶でも飲もうかということになったので、
「エーデルワイス(パティスリー)でお茶でもする?」
とわたしが提案して、店の前でタクシーを降りました。
すると、母は周囲を眺めていたかと思うと、くるりと店に背を向け、あたりを見回しながらスタスタと歩き始めたので、「もしかして幼い時の記憶が?」と思い、後をついていくことにしました。このあたりは、母の生家があった場所に近いのです。
彼女の話によると、今は道の幅が当時より倍以上広くなっており、建物も新しいものが増え、印象もずいぶん違って見えるそうで、痕跡を探すのが難しそうでした。旧三和銀行は影も形もないし…でも、国道を隔てた商店街入口に「三和通り」という表示があったので、おそらく、その十字路の東側マンションの場所が銀行だったのではないかと思うのですが。

あまり生家につながるヒントがなさそうだったので、スマホの地図を頼って、母を寺西公園に誘導してみました。ここには戦災者の慰霊碑があるのです。それは情報としてだけ知っており、わたしも訪ねるのは初めてでした。
すると、公園入口の下まで来たところで、母が「あっ!」と言いました。


‘公園入口の門’ 
石柱が前に立っていて、文字は「呉市戦災遭難者供養塔 寺西児童公園地」かな?
石垣の上が公園
寺西公園の門

この公園こそが、彼女が「お屋敷」と呼んでいた家の跡だったのです。
当時からこの門はあり、その門扉で隔てられこの上には入れなかったけど、大きな桜の木があって、春には花びらを小径に散らしてきれいだったそうです。一人遊びに慣れていた母は、よくここに来て、花びらを糸に通したりして遊んでいたとのこと。


‘門の裏側’もともと、お屋敷の門柱はレンガでできていたのだろうか。当時はもうコンクリだったかな。
寺西公園の門の裏


‘石垣と自治会館の隙間’ 
この隙間の面に防空壕入口があったそう。
門のそばの壁

呉空襲の時、母が初めに入った防空壕です。今はその入口を見ることはできなさそうでした。


‘公園に入ったすぐの並木’ 当時は立派な桜の木があったとか。今は桜ではない。
公園の木


‘供養塔地蔵菩薩像’
戦災者慰霊の観音像

‘説明の碑’
戦災者慰霊碑の文言

和庄地区にある3つの慰霊碑のことは、以前、原稿を書くために調べてその存在を知りました。が、そのうちのひとつが、空襲の日に母が初めに入った防空壕の場所だったとは、わたしにはちょっとショッキングで、疑問とともに、より深刻な想像も伴いました。

・以前の母の話では、行こうとしていた防空壕より近くてまだ安全そうだった印象だったが、そうじゃなかったのか。(もっと悪い状況だった?)
・ここに慰霊の観音像があるってことは、ここでも相当戦災死者が出たんじゃないのか。
・ここのお屋敷の主は、戦後どうしてここを手放したのか。
・そして、土地を売ったとしても、どうして公共の公園になったのか。すごく気になる。

冷静に碑の文章を読んでみると、観音像は、この場所というより、呉空襲全体の遭難者のために建立されたようなので、ここが特別にというわけではないかもしれないですけど、それはわかりません。

とにかく、この場所で母の記憶が甦ってきたので、さらに生家を探して歩き出しました。
つづきます。また後日。









| 日記・つぶやき diario | 23:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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2018年度カレンダー

今年も懲りずに作ります。この卓上スタイルになって14年目かな。
毎度スロースタートで、いつもこの時期の発表ですみませんですが、年末に向けてがんばりたいと思います。
さて、2018年のテーマは、「和菓子とその情景」です。

和菓子には、四季の自然のイメージがベースにあるものが多々あり、ネーミングも、売っている店が独自につけたりと自由なものだと思いますが、今回、カレンダーの挿絵を考えるにあたっては、

◆製法や形状などで、一般化した名前を持つもの。(少なくとも、複数の店がその名を使用している)
◆名前や形状から、情景を思い浮かべやすいもの

を選びました。実際、菓子を考案される職人さんたちは、菓子を産み出してから情景を想像して名前をつけるのか、美しい風景を見てから、それにちなんだ菓子を産み出すのか、どちらなのかわたしにはわかりませんが、今描いている風景は、菓子の名前、色、形状から、風景のイメージを決めました。


イメージの見本です。

‘2月’ 浮島(うきしま)
カレンダー2018-2

‘4月’黄身時雨(きみしぐれ)
カレンダー2018-4


※おおまかなイメージはこのようになりますが、細部についてはマイナーな変更をすることがあります。
 フォントは昨年とほぼ同様になります。
※12種の和菓子の簡単な説明つき(名前の由来、季節との関係など)
※祝祭日、二十四節気、大安の印つき
※置き式。以前の、立てたイメージ


紙は白地、台紙の色は、おそらく黒です。
今回は、構成上、絵を最上面に置いたので、絵の部分が、使用後しおりにはならないかもしれません。
もし、買ってやろうという方がいらっしゃいましたら、sue.cadeaux☆gmail.com(☆をアトマークに変える)までメールくださるか、直接私にお問い合わせください。
よろしくお願いいたします。

2017年度カレンダー 12枚つづり
置き式 H140×W180ミリ(台紙を含まない各月 H126×W175ミリ)
価格 850円 (送料別)

以下は、12ヶ月の各テーマ(暫定です)


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呉空襲と幼い母の話1(きっかけ)

‘呉の世界の片隅に’
呉の世界の片隅に2017
Mi amiga organizó y editó un libro dedicado a Fumiyo Kono, la autora de “En este rincón del mundo“. Como nosotros somos graduados de misma univesidad, nosotros los compañeros escribimos y dibujamos sus recuerdos con ella, impresiones de los libros de ella, además escribimos las historias de sus padres en la temporada de la 2a guerra mundial (es que el tema de la historia de “En este rincón del mundo“ es una vida en la guerra). Yo también participé en este proyecto y escribí y dibujé sobre la historia de la infancia de mi madre.


この夏、大学時代からの友人Mさんが取り仕切って同人誌を出しました。「呉の世界の片隅に」です。
「この世界の片隅に」のこうの史代氏をオマージュした作品を、氏が在籍した大学のサークル(イラスト/まんがサークル)のOBに募ったのです。わたしも当時そこに在籍していた縁で、少しだけですが寄稿させていただきました。
はじめ、彼女との思い出話といっても、作品にして他人に語るほどのことでもない気がするし、あの名作のパロディーなんて描けないので、作品を出そうとは思いませんでした。しかし、Mさんのところにいろいろな作品が集まってきてみたら、意外と、寄稿者の父母の世代と戦争との関わりの話が複数あり、Mさんは、「それならSueにも描いてもらいたい」と思ったそうです。以前、わたしが友人達にした呉空襲の時の母の話を覚えていてくれたのでした。
「だって、あのときお母さんが逃げていなかったら、あなたは生まれてなかったんだよ?」
と、友だちからはっきり言われるって、すごいことですね。自分がぼんやりそう思っていたのとはまたちがって、もっと説得力が増すというか、なんだか胸が熱くなるものがあったので、もらった2ページで、母の経験を絵と文で描かせてもらうことにしました。「この世界の片隅に」の原作と映画がきっかけで、何度か母に呉空襲の話をしてもらったことがあったので、その話なら書けるかなと思いました。

しかし…

子どものときから、たまには聞いていた話のことだったし、さきほども言ったように、「この世界の片隅に」がきっかけで、さらに話を聞いて理解が深まった…つもりではあったけれど、母がくりかえし語るのは、断片的な、いつも同じ部分。彼女は物書きでも教授でもないから、最初から時系列にまとめて話してくれるわけじゃないし、そのとりとめのない話に、こちらからどんどん質問して引き出さないと明るみにならないことが多かったです。そして一旦知ったようなつもりになっても、後から「あれ?じゃあこっちが先のできごとなのか?他の家族はどうしてたの?」だの「どこの場所のことなの?」だの、こまかな部分が抜けていることに後から気づくんですよね。しみじみ、自分は、これまでちゃんとは聞いてなかったんだなぁと思いました。

さらに、呉市は戦後、住所表記が変更されたり、当時の建物が建て変わったりして、母の言う「三和銀行」「シネマ」「本通○丁目」などが、今の地図ではわからない。わたしたちは離れて暮らしているため、本当に確認しようと思ったら、もっと時間が必要でした。でも、締め切り間近になって原稿を書くことを決めたため、電話でしつこく話して確かめることくらいしかできませんでした。そんないきさつで、その時点で自分の頭の中を整理したことから作品を描きました。
電話で地理的なことを確認していたとき、母が「今度、生家があったとこあたりに行ってみる?」と言い、わたしも「うん」と言いましたが、心の中では、ああもっと早くそうしていれば…原稿書くにはもう間に合わない…と思いました。
それでも、いざ描いてみたら、2ページでは足りないくらいでした。自分が見ていない時代の話を、聞いただけで描くのはむずかしく、結局、絵より文字の多い作品になりましたが、最小限必要なことは書けたと思います。(あとで、細かな間違いはいくつか見つかるのですが)


その後、同人誌はMさんの手によって無事に夏のコミケに出され、とらの穴でも販売され、また、先輩のおかげでコミティアでも販売されたとのことです。わたしも全部読んでみました。なつかしい面々のなつかしい絵や筆跡にお目にかかることはもちろんうれしい驚きでしたが、初めて読む人にとっても、ちょっとびっくりするような情報があったりで、けっこう濃い内容だと思いました。

友人や知人から、わたしの作品にもそれなりに感想もいただいて、うれしかったです。その後、母に見せたら、大変うれしそうでした。戦争の記憶は決してうれしいものじゃないと思いますが、自分の人生の一コマを取り上げてもらったのが、うれしかったんじゃないでしょうか。「空襲を覚えてた姉が生きていたら、これを見せて、昔語りがしたかったな。」と言っていました。

友人が思い出して勧めてくれなかったら、わたしも描いていないので、こんな親孝行ができたのは、こうの史代さんと、この同人誌を出してくれた友人のおかげですね。


さて、この話、これで終わりません。
この9月のお彼岸に、母と墓参りをしたときの話に続きます。墓参り後、母の生家のあった場所に行くことができました。そこで、もっといろいろ見えてきたことがあったので、また後日、書きます。




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