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干し鱈を使った料理

そろそろ、うちのごはんもすっかり春らしくなってきているのですが、その前に。
この冬は、干し鱈を何度か使ってみました。
もとはといえば、昨年末に八百屋で売られていたのを、正月の煮染めにしようかな、と考えて里芋と一緒に買いました。

が、年末といえば、カレンダー作りに追われているので、あまり正月料理のことを考えている余裕はないのだった…
そして、やっぱり作らずに終わりました。前年同様、うちの相方の実家で、なにもかも御馳走になることになったのでした。(わたしは雑煮を作っただけで終わった。^^;)

そんなわけで、使わなかった干し鱈と里芋は、以前書いたように、フェンネルと一緒にシチューにしました。豆乳と白みそを使うけど、フェンネルとか粉チーズも入って、あまり和風な感じにはならない。これが美味しかったので、後でもう1度やりました。


‘干し鱈入り豆乳シチュー’ 今回は、里芋がなかったのでじゃがいもで。フェンネルもなし。
干し鱈入り豆乳シチュー2018
Guisado con leche de soja. Usado bacalao japonés(un poco distinto de lo de España). Sazoné con miso y queso polvo también, y salió muy muy rico!

干し鱈を、水に浸けて戻しますが、かなり塩辛いので、いったん洗って、水を捨て、数時間浸しておきます。
この汁は、出汁がでているので、ぜひ使いたいんですが、全部シチューに入れてしまうと、塩味が利き過ぎて、後で白味噌と粉チーズが入れられなくなるので、たくさん入れないようにしています。

以前にも書きましたが、豆乳と白味噌と粉チーズの組み合わせがとても合う。もともと作っていた豆乳アンコウ鍋を応用したんですが、干し鱈も、よい出汁が出て、魚臭さは豆乳が引き取って、とてもいいです。豆乳じゃなくて、牛乳にして、ふつうのクリームシチューでも美味しいと思う。


‘干し鱈のトマトシチュー’ 鶏肉も入っています。
干し鱈いりトマトシチュー2018
Guisado de tomate. Aunque usé bacalao también, creí que no lo necesitaba. En este caso, prefiero con carne sola.

豆乳シチューが大変うまくいったので、これに気をよくし、「じゃあ、トマト味のシチューにも使ってみたらどうだろう」と思って、それも作ってみました。
これはね…美味しかったけど、べつに鱈じゃなくてもいいな。わたしの好みですが、肉の出汁で作った方が、トマトにはいいような気がします。


‘じゃがいもと干し鱈のフリット’
干し鱈とジャガイモのフリット
Bacalao y patatas fritos. Esta combinación es muy bien sin falta!

スペイン料理で、たしか、ジャガイモと鱈を揚げたものがあったと思ったので、日本の干し鱈でも大丈夫なのではと思い、揚げてみました。戻した干し鱈は、そんなに火を通す必要がないので、じゃがいもも、予めだいたい火を通してから、ごく薄い衣で掻き揚げみたいに一緒に揚げました。すぐに揚がるのがいい。
鱈が塩っぽいから、ジャガイモを多めにしたけど、じゃがいもをもう少し細く切って、鱈を増やしてもいいかも。ビールが欲しくなるようなおいしさでした。


骨を除くのが少し面倒ではあるものの、干し鱈、けっこう使えますね。日持ちするので、また寒い季節になったら手に入れたいと思います。店によって、値段はまちまちな気がします。わたしは場末の八百屋で、すごく安く買いました。

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今日の陶芸

‘取り皿くらいの大きさの平皿2枚’
陶芸180321-1

‘かめ土(赤)に黄瀬戸釉’
陶芸180321-2
Hice 2platos. El plato marrón es de un barro nuevo para mí, es más suave para tratar. El plato de color marfil no salió bien. Tiene un defecto, una fisura pequeña.

春分の日を利用して、陶芸をしてきました。
今回は、初めての土、かめ土で作陶した作品でした。赤い土だったので、黄瀬戸釉をかけると、薄めの飴釉のように見えます。皿はちょっと厚めになったので、まあ、それほど使いやすくはないですが、そのうち何かをのっけてみるかもしれません。


‘小さい亀裂’
陶芸180321-3
Una pequeña fisura o hendidura? Cuál palabra es adecuada?

白い方の皿は、これまで何度も作ってきた、はっさく土とわら白釉の組み合わせですが、本当にいつも、おもしろいくらい、なにかが上手くいかないものだなと思います。フォルムが気に入ったときは絵付けがうまくいかなかったり、絵付けなしにしてシンプルにしたから失敗はないだろうと思ったら、なぜか皿の一部に亀裂が入ったり。つまりは、それがヘタクソってことなのですが。
今回も、表に小さな亀裂があったので、そのうち植木鉢の受けにでもしようかな。

このほか、前々回に作陶した花瓶が素焼きの状態で出てきたのですが、この段階で、変なひび割れが入っていました。先生のお話だと、作陶後、乾き切らないうちに、すごく気温が下がった日があり、もしかしたら、粘土中に水分が残っていて、それが密かに凍っていたのかもしれない。その状態で焼成して割れたのではないか。ということでした。たしかに、いつものひび割れとは少し違った形状でした。ひもづくりで成形したつなぎ目に、かつてないほど広範囲で細かいひびが入っていました。あと、下部のほうに、まるで皮がめくれたように、土がうすく起き上がった割れがありました。気温のせいでこんなことがあろうとは知りませんでした。
でも、こればかりは仕方ない。作陶が終わった段階で冷静に見たとき、思い入れのあるフォルムにもなっていなかったので、ショックはありませんでした。今回の花瓶は作陶中わりと苦しめられた作品でしたが、たいした計画性もなしに作り始め、なおかつ苦しめられたものって、たいていどこか無理してて、満足したものにならないな。
また、もっといいのを作ろうっと。

本日の作陶メモ:
隣にいた人の、完成したぐい呑みを見て、そういえばそういうの、あまり作ってなかったなぁ、と思い、わたしも3つ作りました。かめ土+はっさく土のブレンドで2個、柿野赤土で1個。電動ろくろにて。次回、釉薬を決めます。
あと、丸っこいタイプの中鉢をひとつ、これもかめ土+はっさく土のブレンド、電動ろくろで作りました。先日、夕飯にと、鰹のたたきをコチュジャンだれで漬けにしたとき、ちょうどいい大きさの器がなかったので、そのくらいの大きさを目指しました。

| 陶芸 ceramicas | 13:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「食べごしらえおままごと」と春の台所

‘つくし’毎年の恒例行事
つくし仕事2018

‘美しいとは言えないけど’
つくし煮浸し2018
Las magnolias florecidas nos informan lo que esta verdura también ya ha llegado en los campos. Se llama tsukushi. No se planta ni se crea, es salvaje. Sabe un poco amargo.


春分を前に冷え込んでいますが、それでもいよいよ本格的に春になってきました。
今、石牟礼道子さんの「食べごしらえおままごと」というエッセイを読んでいます。先日、「同じ著者の、軽めのエッセイでも読んでみようか」と書いた、その本ですが、読んでいると、わたしもなにか作ろうかな、という気分になってきます。
とはいえ、エッセイの内容は、何かの一皿をくわしく描写するとかではなしに、食に関わる地域の思い出話が主体で、熊本南部の方言を交えたエピソードが、やっぱりおとぎ話みたいで、その味わいがなんともよい感じ。特に、正月の獅子舞の獅子に振る舞った料理とお神酒の話は、ユーモラスで大好きになりました。
著者の幼少期の1930年代から、これが書かれた1990年代までの間の話を、食を通じて自由に往き来しているのですが、豊かな自然から命をもらい、家族や近隣も含め、郷土料理をこしらえる話はなかなか興味深いです。
読みながら、自分の成長期を思い出してみると、どんどん自然環境が失われて行った時代だったなと思うけど、幼少期は、まだギリ残っていたものもあり、自然に対する著者の感じ方に、共感を覚えるところも多いです。

摘み草についてのエッセイもありました。
春、摘み草をする者にとっては、「(里山や野原に)行かなければ」と、そわそわするものですが、行きたい気持ちの理由は、わたしはなかなか自分で説明できませんでした。少なくとも、美味しいからとか食欲とかそういうことではない。でも、これをやらなければ、春が来たような気がしない。この感情は、日本人の花見の前のそわそわにもよく似ているけど、わたしにとっては、花の酒宴よりはこっちのほうが重要かな。
この本の中で、著者はその気持ちを分析していたので、ちょっと引用してみます。

「早春の気配を聴く頃にだけ、一種鮮烈な感情が胸をよぎるのはなぜだろう。去りゆく冬と一緒に、振り返ることのできない過ぎ来しを、いっきょに断ち切るような断念と、いかなる未来か、わかりようもない心の原野に押し出されるような一瞬が、冬と春の間に訪れる。それはたぶん、かりそめの蘇生のときかもしれない。」

春菜を摘む行為って、わたしにとっては、「命の洗濯」で、リラクゼーションの部分が大きいなと思ってるんですが、古くから続いてきた意味としては、新しい命をいただいてエネルギーをもらい、自分の新しい「これから」を明るいものにしようとする祈りなのかもしれませんね。


‘独活とりんごの酢みそ和え’ 彩りに胡瓜も。
独活とりんごの酢みそ和え
Ensalada de udo y manzana, con vinagre, miso, y azucar. Udo y manzana huelen bien, el sabor de esta ensalada es muy fresco.
El udo es un brote de aralia cortada en español.


本の巻頭には、意外だったことに、山の幸・海の幸に恵まれた土地の郷土食のカラー写真(著者自身の調理)と、簡単な説明もついていました。
その中に、「独活(うど)とりんごのサラダ…でも、酢みそ和えのほうがおいしい」という記述があり、気になっていました。
そして、偶然にも独活が安く手に入ったので、わたしも試してみるべく「独活とりんごの酢みそ和え」を作ってみました。
りんご酢を使ったからなのか、香りがよくすっぱい紅玉りんごを使ったからなのか、とても爽やかな味になり、「わけぎのぬた」などとは全然違ったものになりました。独活とりんご、合うね。
うちの相方は
「これ、ヨーグルトとか、入れた?」
と聞いてきました。もちろんそんなものは入れていませんが、白みそと酢が、独活とりんごから出た水分でまろやかになったのかもしれません。


本には、「イギリス羹」と呼ばれる、イギスという海藻を寄せ固めた料理の記述と写真もあって、ちょっと懐かしくなりました。瀬戸内にも、これに似た料理があります。こちらでは「イギス豆腐」と呼んでいますけど。
わたしの幼少時、となりの家のお母さんが、瀬戸内の島からお嫁に来た人だったので、ときどき作っておすそわけしてくれたのを食べたことがあります。酢みそをつけて食べていました。かなりザラザラする口当たりで、特に甘くも辛くもなく、当時、子どもの口にはあまり美味しいとは思わなかったけど。でも、その後お互い住む場所も変わり、時間が経ち過ぎました。少なくとも、今、近くにあれを作れる人はいないので、もう、あれは食べられないな。

自分の幼少期と今を比べてみても、もう食べられなくなったもの、今だから食べられるもの、と、いろいろありますが、摘み草と春の野菜料理については、やっぱり他の季節のものに比べて格別だと思うので、できるかぎり作って食べ続けていきたいと思います。


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自分メモ:
もう気軽に手に入らなくなったもの
・国産マツタケ
・アイナメの煮付け
・いかなごの酢漬け
・経木に包まれたお刺身
……魚はほんとヤバイな。

今は気軽に手に入るもの
・アボカド、ホワイトアスパラ、ロメインレタスなど洋野菜
・レベルの高いお菓子
・スパークリングウォーター(味なし)

まだまだいろいろありそうだけど。








| クッキング mi cocina | 23:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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苦海浄土(わが水俣病)を読んで

‘椿’  著者は、美しい不知火海を「椿の海」と呼んでいた。
薮椿1


ちょうどこの本を読み終えて、巻末の解説を読んでいたときに、著者の石牟礼道子さんが亡くなりました。
テレビでニュースを見ていると、生前の活動を「文明の病としての水俣病問題に向き合い…」みたいな紹介がされていました。
それを聞きながら、「文明の病か…それには2つの意味があるな」と思いました。
ひとつは、有機水銀を海に垂れ流し続けたせいで、多数の中毒患者と死者を出した、その病気
もうひとつは、経済優先で人命を軽視し、事実に向き合わず臭いものに蓋をした、社会の病気

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Eテレ「100分de名著」で、2016年に取り上げられるまでは、その存在を知らず、番組が始まる前の紹介でも、公害病の話か…気が重いテーマだなぁ…くらいに思っていました。

確かに重かったけど、番組のテキスト(以下、テキストと呼ぶ)にあった、著者が近年雑誌に寄稿した数行や、さらに「苦海浄土」本編の数行の断片(それは患者と、その家族によるモノローグ部分だったのですが ) 、それを読んだら、一気に引き込まれました。
悲しいけど、ものすごく美しかったから。

それで、いずれは原書を読んでみたい、と思いました。
わたしが特に興味があったのは、前述のモノローグに大変惹きつけられたので、ほかにどのような言葉があったのか読んでみたかったこと。
圧倒的な理不尽さによって、全てと言っていいくらい多くを失った人々なのだけれど、恨み言を言う表現があまり多く描かれていなさそうで、どういう状況と心理だったんだろうという疑問。
テキストの解説では、「この本は、なかなか全部読めないかもしれないけど、全部読めなくてもいいから断片的にでも読んでみて欲しい」というようなことを言われていて、読破する自信はなかったけどとにかく読んでみることにしました。

「苦海浄土(わが水俣病)」(新装版・講談社文庫)を買って、しばらく読むと「あれ?これ全部読めそう」と思いましたが、350ページくらいあった作品の最後に(第一部終)という一文があって、なるほどなと思いました。
これ、全部読んでもまだ、第2部と第3部が別にあるんですよ。(遠い目になる)
長い時間をかけて、著者がずーっと近年まで書いてこられた全3部で完結した作品のうち、1972年に発行された第1部だったのでした。


そんなわけで、第1部だけ…とはいえ、内容が濃いので長くなりますが、感想を記してみます。
読んでみると、テキストにも説明してあったように、ドキュメンタリーのようなのに、完全ドキュメントでもなく、けれどもフィクションかと言われればそうでもなく、書いてある本質は本当のこと…という、とても説明しにくい作品でした。
わたしはあまり本を読むほうじゃないけど、読むときには、だいたい寝る前の睡眠薬代わりのように少しずつ読んでから眠りにつくのが常なのですが、この本に限っては、かえって眠れなくなるくらい衝撃的でした。

寝られなくなるくらい、当時のチッソの対応のクズっぷりが凄まじかった。
戦後復興、高度経済成長時の、社会全体がアゲアゲだったろう気分の裏の、暗い影の部分。
今は、ここまでやったら会社はすぐお終いだなぁと思ったけど、それはひとえにこれを含む公害病事件の苦難と戦いの歴史の結果、徐々に皆の意識が引き上げられたからですね。心が痛む記録は読んでいて辛いけど、「少しはマシになった今」はその犠牲や努力の上に、できあがったモラルなのだということが、じわじわ来ます。戦没者に祈るなら、公害病の犠牲者にも祈るべきじゃないかな。

それにしても、なんか、これ、今の原発問題にすごく重なるなぁ…

国策がからむ大企業と、それ頼みの自治体、そこに暮らす市民と被害者の関係の構造は、今も根本的には変わっていなくて、東日本大震災の原発事故の後に見られた動きにそっくりな部分も多いように思いました。
水俣の場合、当時、国や警察ばかりでなく、市民も全然被害者の味方ではなく、「お前ら患者のせいで市のイメージが堕ちた」ように扱われたし、チッソは長年水銀垂れ流しを隠蔽しただけでなく、見つかれば自らに都合のいい示談をのませ、新潟の第2水俣病を未然に防ぐことができませんでした。
でも、その新潟の事件を糸口に、国の問題として露わになったのだそうで、それがなければ、水俣は本当に事実を黙殺されたままになっていたかもしれず、(でも、黙殺された時間が長いので、全容が判らないことが多く、今もまだ係争中の裁判がある。)本当に怖いと思いました。


ここまで長々と書いてしまいました。が、この本の文学的価値、心を捉えて離さない部分は、そこではないと思います。
やはり、患者と家族のモノローグ部分だと思います。特に、「ゆき女きき書」と「天の魚」の章。
巻末の解説で、渡辺京二さんが、「彼女は記録作家ではなく、幻想的詩人だ」と書いていましたが、詩とも呼べるのかな、熊本弁語りの部分がすごいです。

「うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。…もういっぺん、行こうごたる。あの海に。」
という、「ゆき女きき書」の章では、漁に出ていたときの自然と生活の描写が、ひときわ鮮やかでした。
「天の魚」の章では、患者の孫をかかえた爺さまが、老い先短い我が身と、孫の未来を憂えた話をするのですが、自然信仰が生活に密接して描かれていました。爺さま、息子の逃げた嫁を恨んでないんですよね。彼女を「しあわせの悪かおなご」というのは、「よい運に恵まれない女」ということで。
この2つの章、どちらの章も大変切ないけれど、やわらかい熊本弁で語られる言葉は、ちょっとおとぎ話のような雰囲気というか、浄瑠璃の物語のような魅力があって、なんてきれいな文だろうと思いました。「美し」と「愛し」は「かなし」と読めるんだというのが、すっと納得できる感じ。熊本弁っていいなと、初めて思いました。きっと、この章だけでも読む価値があります。
ちょっと見には、患者が語るドキュメンタリーに見えるこれらは、本当は、病気で言葉を失った彼らに著者が「成り代わって」書いていて、それは、絶望感とか喪失感をどこかしらで共有していないと、とても描けない。その中で見ている幻想。これらの章の美しさは、暗い場所に置かれているほど発光体の美しさが際立つ、みたいなことなんでしょうか。
このモノローグは、できることなら空に上げ、星座にして祈りたいような気持ちになりました。


おそらく、2部、3部では、時間がどんどん経過していき、わたしが知りたかった
「圧倒的な理不尽が襲いかかってきたとき、人はどう生きようとするのか。何に救われるのか。」
「恨みでない感情が人の心を打つのはなぜか。」
が、もっと深く掘り下げられているのではないかと想像します。
テキストにちょっとだけ出てきた、きよ子と桜の話も、ちゃんと読んでみたいです。
ただ、読むのにはエネルギーが必要で、第1部読んだだけで、かなり疲れました。重いし、深く問いをつきつけられる量が半端ないです。
2部、3部も、たぶん1部の量くらいあるようなので、テキストに
「すぐには読めないかもしれない。手が止まることがあるかもしれない。」
とあったのに頷きました。次を読むとしたら、ある程度時間が経って、エネルギー溜めてから。または、自分に難しい局面がやってきた時。
出版社へのお願いとしては、できれば、2部、3部も、分けて文庫本にしてほしいし、文庫らしい値段にしてほしい。
アマゾンで全3部が一冊というのがありましたが、安易に手にとれない価格とページ数なんですよね。
そして、亡くなってしまわれたからなのかなぁ…先日よりもっと高値になってないかな…気のせい?
とりあえず、あまり多くなさそうだけど、この方の軽いエッセイでも読んでみようかな。彼女の、自然とのかかわり、詩的な表現は好いと思いました。読んでいて、「神話的時間」ていうキーワードが頭に浮かんできました。
最後になりましたが、石牟礼道子さんのご冥福をお祈りします。彼女の考え方に従えば、きっとその魂は自然の花々に宿るのだろうなと思います。

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高熱時にしみわたる

水仙2017

2月中旬、10年ぶりに尿路系に炎症があり、高熱が出ました。これで3回目。
冬になったのは初めてで、なんでなったのかわかりませんが、この冬は大変寒かったので、1〜2月の自転車通勤が、地味に体を疲労させていったのではないかと思っています。

もちろん病院にも行ったけど、前回の記憶を辿り、水分を摂ることを心がけました。アイソトニック飲料は体に浸透する感じがよいのでもちろん準備しますが、お茶は、その種類によって、体にすっと入る、入らないの差が激しいです。
わたしだけかもしれませんが、麦茶やブレンド茶は、しみ込んでいかない感じで、量が飲めません。やっぱり、良いと思うのは、緑茶のすっきり系。
今回、にごりのある緑茶も試しましたが、苦みが邪魔でした。元気なときなら気にならないけど。
あと、熱が出ると、如実に油っこいものと味の濃いものがダメになりますね。

仕事を休んだので、日銭を失うことになったのは残念だったけど、ちょうど平昌五輪会期中で、しかもフィギュアスケート男子シングルの日だったので、割り切って全部見ました。普段見かけない選手が出るのもオリンピックならでは。
もちろん日本の選手を楽しみにしていたけど、NHK杯後に、わざわざ呉の大和ミュージアムまで足を運んでくれたという、ラトビアのバシリエフ選手には「ありがとう!休館日でごめんね!また来てね!」と思いながら見てました。
あと、毎回ですが、オリンピックを最後に引退する選手も多いので、寂しいなという気持ちもありました。必ず悲喜こもごもありますもんね。エキシビで見られなかったパトリック・チャンやデニス・テンは世界選手権出ないのかな…。

| 日記・つぶやき diario | 23:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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