2019.02.18 Mon
100分de名著-スピノザ「エチカ」
‘意思という観念は現代の神話である。’

Hubo un proglama de educación de tele sobre el filósofo Espinosa. Para mí, fue muuuuy dificil, pero creo que también es muy interesante. Aunque es pensamiento del siglo17, para pensar los problemas de discriminacion, de teoría de la responsabilidad de hoy sería útil suficientemente.
中世が終わり、今日にいたる近代化のきっかけになったのは、17世紀の政治思想や哲学なんだそうです。デカルトが登場して、数値やデータなどで「他者に絶対説明できること」を至上としてきて、ここまで来た現代。
そのおかげで世の中が発展し、その恩恵は言うまでもないけど、でも、さて、今のこの息苦しい時代は、なんなんでしょうね…
と考えた時に、スピノザの哲学を学ぶことは意義があると。
…たしか、そういうことだったか、100分で名著12月は「スピノザ」でした。
(旧年中の放送だったけど、わたしがテキストを読むのが遅くて、今これを書いています。)
わたしも年を取ってきたせいか、哲学のお話も、少しは興味がありますよ(分かりやすければ)……って。でもこれ、番組テキストから入ってたら、たぶん挫折してたの間違いなし。もちろん、原書の日本語訳など、読もうという気になるはずがありません。テキストに引用してある部分だけですら、何のことやらわかりませんでしたから。
しかし、幸いにもテレビから入ったので、担当の國分功一郎先生が、すごくわかりやすく解説してくれていまして、興味がわいてきました。いつも、このくらい分かりやすい先生だといいなー。
それでも、それをここできれいにまとめるのは、そんなに良いオツム持ってないわたしにはやっぱり難しい。
とはいえ、番組とテキストで思ったことの大部分は必ず忘れるので、ここになんでもよいから記しておき、忘れたときにまたこのブログを読むようにしたいです。で、ちょっとがんばって書いてみます。
先生曰く「わたしたちの思考とOSが違う」とおっしゃっていましたが、本当にそんな感じでした。
スピノザが考えていたことは、当時の政治にとっても宗教界にとっても、都合の悪いことばっかりで、生涯要注意人物だったとのことです。
よくもまあ、17世紀のキリスト教やユダヤ教の中に生きる世界で、「神すなわち自然」(すべてのものは、神の中にあり、わたしたちもまた、神の中のひとつの様態にすぎない)とか、すごい概念を生み出したね、と思いました。
そして、私たちが日ごろ漠然と前提としている、ものの見方がことごとく覆されます。
ざっくり書くと…
◆固定された善悪は存在しない。すべては関係性の組み合わせとしての善悪…私たちの存在の維持、活動能力を増大させるものを善、妨げるものを悪として捉える。
◇人の本質は、形によって決まらない。古代ギリシャから、見かけを本質と捉えられてきたが、スピノザは本質を「コナトゥス=自分の存在を維持しようとする力」と捉える。なんらかの刺激が働きかけてきて自分が置かれた状態が、自らになにかをするよう働きかける。その働きかけが欲望で、その欲望は本質そのものである。
■自由とは、制約がない状態のことではない。生きるものすべては、体を持つかぎり、可動範囲を持ち、有限の中で動く。
必然的な法則に従い、学びながら、だんだんとうまく動かせるようになる。これを能動的にこなせるようになるのが自由。
これを無視され、受動的に動かされる「強制」こそが、「自由」の反語である。
□他者と関わりながら生きていく限り、全くの能動にはならず、どこか必ず受動的な部分がある。全くの自由ということはありえない。
「私の意思で」「君の意思で」というが、これを自発的な「自由意志」というのは間違いだ。必ず、何者からの影響や命令を受けており、何の影響も受けていないことはありえないからだ。意思がゼロから生まれたように感じられるのは、その原因を知らないからに他ならない。自由な意志の存在は認めないが、ただし、私たちが意思の存在を「意識」することは否定しない。
ここからは、わたしが思った感想です。
◆善悪の話
善悪を固定する概念だけだと、危ういのかも。いいことをしていると信じ込んでいるヤツにかぎって始末に負えないとか。大昔、酸素は生物にとって毒だった、という話も思い出しました。
◇人の本質の話
なるほどと思ったのは、人種、性別、LGBT、障害などの差別問題ですね。本質でなく、形にどうしてもとらわれている。
あと、何か大きな問題が起こった時に、どう動くか…に見られる「欲望」っていうのが、その人の本質なのかもしれないと思いました。隠していた自分が、表出する瞬間。
■自由の話
以前、サルトルをこの番組でやったとき、わたしにとっては本当に難解で、ブログにも何も書けませんでしたが、ひとつ、持った印象があって、
「自由な他人を尊重しながら自分も自由でいるの、結構しんどそうだな。」
でした。自由に必ずついてまわる孤独の深い沼に、あなたは耐えられるか。…ってイメージです。
でも、スピノザが言う自由は、そういうのとは違いそうです。先生は、例として、表面的には同じ行為である「お金を出す」にも、能動的な善意の寄付と、受動的なカツアゲによるものを挙げて、自由と強制を解説していました。
この考えなら、いろいろ抱えて不自由そうに見えても、能動的に動くことさえできれば、自由になれそうではないですかね。
まあ、実際には、雇われの身とって、それもなかなか難しいことが多いんですけど。
□自由意志の話
特に印象的だったのが、これについて先生が挙げた例でした。つまり、ここ最近多い、自己責任論のことです。
はい、これがあなたの選択ですね。ご自分で決定されたことですから、その責任はあなたにあります。と言われるアレ。わたしはテレビやネットで、この自己責任論が出てきて、なんかモヤモヤする場合は、「自己責任で」を「オレは知らない」と訳すことにしています。「オレにキャパはないんだから、頼るなよ。」いっそのこと、そう言ってくれたほうが、潔い。
先生の話だと、自由意志という概念は、古代からあったものではないとのことで、現代は「意思教?」と思うくらい、意思というものを信仰しすぎ、もう取り憑かれているんじゃないか、と言っていました。
わたしの所感としては、自分の意志…どっちかというと意思のなさかな?…からの選択の結果、自分の人生に満足できてない部分が多くあるとしても、半分は社会環境のせいでもあると思っていて、自分と社会のどちらもを、ひどく責めていないつもりです。ただ、もしも、そこを全て自己責任にしてくるヤツがいたとしたら、お前はひとり無人島から始めて今のポジションを勝ち取ってこいや。と返したいですね。
こうして、ちょっとだけわかったこと、思ったことを並べてみましたが、スピノザが言っていることは、現代に生きる弱者にとってこそ、心強いような気がします。何かを理解する体験のプロセスを大切にした哲学なので、その後の方向には取り残された感じになってしまったのかもしれません。現代人は、近代の考え方になっているので、スピノザのOSが違うと感じるのだそうです。
でも、経済活動の大きな思惑の渦の中で、いくらでも代わりがいる単なる駒のひとつみたいな扱いを受けたり、自由意志や差別の問題など、現代人が抱える悩みのすぐそばで、この概念の存在が少しでも意識の中にあれば、もう少し豊かな気持ちで生きて行けそうな気がします。
番組のHPのまとめを読んだら、すばらしくきれいにまとめてあったので、こっちを読んで思い出したほうが、よくわかると思います。
100分de名著-スピノザ「エチカ」

Hubo un proglama de educación de tele sobre el filósofo Espinosa. Para mí, fue muuuuy dificil, pero creo que también es muy interesante. Aunque es pensamiento del siglo17, para pensar los problemas de discriminacion, de teoría de la responsabilidad de hoy sería útil suficientemente.
中世が終わり、今日にいたる近代化のきっかけになったのは、17世紀の政治思想や哲学なんだそうです。デカルトが登場して、数値やデータなどで「他者に絶対説明できること」を至上としてきて、ここまで来た現代。
そのおかげで世の中が発展し、その恩恵は言うまでもないけど、でも、さて、今のこの息苦しい時代は、なんなんでしょうね…
と考えた時に、スピノザの哲学を学ぶことは意義があると。
…たしか、そういうことだったか、100分で名著12月は「スピノザ」でした。
(旧年中の放送だったけど、わたしがテキストを読むのが遅くて、今これを書いています。)
わたしも年を取ってきたせいか、哲学のお話も、少しは興味がありますよ(分かりやすければ)……って。でもこれ、番組テキストから入ってたら、たぶん挫折してたの間違いなし。もちろん、原書の日本語訳など、読もうという気になるはずがありません。テキストに引用してある部分だけですら、何のことやらわかりませんでしたから。
しかし、幸いにもテレビから入ったので、担当の國分功一郎先生が、すごくわかりやすく解説してくれていまして、興味がわいてきました。いつも、このくらい分かりやすい先生だといいなー。
それでも、それをここできれいにまとめるのは、そんなに良いオツム持ってないわたしにはやっぱり難しい。
とはいえ、番組とテキストで思ったことの大部分は必ず忘れるので、ここになんでもよいから記しておき、忘れたときにまたこのブログを読むようにしたいです。で、ちょっとがんばって書いてみます。
先生曰く「わたしたちの思考とOSが違う」とおっしゃっていましたが、本当にそんな感じでした。
スピノザが考えていたことは、当時の政治にとっても宗教界にとっても、都合の悪いことばっかりで、生涯要注意人物だったとのことです。
よくもまあ、17世紀のキリスト教やユダヤ教の中に生きる世界で、「神すなわち自然」(すべてのものは、神の中にあり、わたしたちもまた、神の中のひとつの様態にすぎない)とか、すごい概念を生み出したね、と思いました。
そして、私たちが日ごろ漠然と前提としている、ものの見方がことごとく覆されます。
ざっくり書くと…
◆固定された善悪は存在しない。すべては関係性の組み合わせとしての善悪…私たちの存在の維持、活動能力を増大させるものを善、妨げるものを悪として捉える。
◇人の本質は、形によって決まらない。古代ギリシャから、見かけを本質と捉えられてきたが、スピノザは本質を「コナトゥス=自分の存在を維持しようとする力」と捉える。なんらかの刺激が働きかけてきて自分が置かれた状態が、自らになにかをするよう働きかける。その働きかけが欲望で、その欲望は本質そのものである。
■自由とは、制約がない状態のことではない。生きるものすべては、体を持つかぎり、可動範囲を持ち、有限の中で動く。
必然的な法則に従い、学びながら、だんだんとうまく動かせるようになる。これを能動的にこなせるようになるのが自由。
これを無視され、受動的に動かされる「強制」こそが、「自由」の反語である。
□他者と関わりながら生きていく限り、全くの能動にはならず、どこか必ず受動的な部分がある。全くの自由ということはありえない。
「私の意思で」「君の意思で」というが、これを自発的な「自由意志」というのは間違いだ。必ず、何者からの影響や命令を受けており、何の影響も受けていないことはありえないからだ。意思がゼロから生まれたように感じられるのは、その原因を知らないからに他ならない。自由な意志の存在は認めないが、ただし、私たちが意思の存在を「意識」することは否定しない。
ここからは、わたしが思った感想です。
◆善悪の話
善悪を固定する概念だけだと、危ういのかも。いいことをしていると信じ込んでいるヤツにかぎって始末に負えないとか。大昔、酸素は生物にとって毒だった、という話も思い出しました。
◇人の本質の話
なるほどと思ったのは、人種、性別、LGBT、障害などの差別問題ですね。本質でなく、形にどうしてもとらわれている。
あと、何か大きな問題が起こった時に、どう動くか…に見られる「欲望」っていうのが、その人の本質なのかもしれないと思いました。隠していた自分が、表出する瞬間。
■自由の話
以前、サルトルをこの番組でやったとき、わたしにとっては本当に難解で、ブログにも何も書けませんでしたが、ひとつ、持った印象があって、
「自由な他人を尊重しながら自分も自由でいるの、結構しんどそうだな。」
でした。自由に必ずついてまわる孤独の深い沼に、あなたは耐えられるか。…ってイメージです。
でも、スピノザが言う自由は、そういうのとは違いそうです。先生は、例として、表面的には同じ行為である「お金を出す」にも、能動的な善意の寄付と、受動的なカツアゲによるものを挙げて、自由と強制を解説していました。
この考えなら、いろいろ抱えて不自由そうに見えても、能動的に動くことさえできれば、自由になれそうではないですかね。
まあ、実際には、雇われの身とって、それもなかなか難しいことが多いんですけど。
□自由意志の話
特に印象的だったのが、これについて先生が挙げた例でした。つまり、ここ最近多い、自己責任論のことです。
はい、これがあなたの選択ですね。ご自分で決定されたことですから、その責任はあなたにあります。と言われるアレ。わたしはテレビやネットで、この自己責任論が出てきて、なんかモヤモヤする場合は、「自己責任で」を「オレは知らない」と訳すことにしています。「オレにキャパはないんだから、頼るなよ。」いっそのこと、そう言ってくれたほうが、潔い。
先生の話だと、自由意志という概念は、古代からあったものではないとのことで、現代は「意思教?」と思うくらい、意思というものを信仰しすぎ、もう取り憑かれているんじゃないか、と言っていました。
わたしの所感としては、自分の意志…どっちかというと意思のなさかな?…からの選択の結果、自分の人生に満足できてない部分が多くあるとしても、半分は社会環境のせいでもあると思っていて、自分と社会のどちらもを、ひどく責めていないつもりです。ただ、もしも、そこを全て自己責任にしてくるヤツがいたとしたら、お前はひとり無人島から始めて今のポジションを勝ち取ってこいや。と返したいですね。
こうして、ちょっとだけわかったこと、思ったことを並べてみましたが、スピノザが言っていることは、現代に生きる弱者にとってこそ、心強いような気がします。何かを理解する体験のプロセスを大切にした哲学なので、その後の方向には取り残された感じになってしまったのかもしれません。現代人は、近代の考え方になっているので、スピノザのOSが違うと感じるのだそうです。
でも、経済活動の大きな思惑の渦の中で、いくらでも代わりがいる単なる駒のひとつみたいな扱いを受けたり、自由意志や差別の問題など、現代人が抱える悩みのすぐそばで、この概念の存在が少しでも意識の中にあれば、もう少し豊かな気持ちで生きて行けそうな気がします。
番組のHPのまとめを読んだら、すばらしくきれいにまとめてあったので、こっちを読んで思い出したほうが、よくわかると思います。
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