FC2ブログ

2019年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年03月

≫ EDIT

100分de名著-スピノザ「エチカ」

‘意思という観念は現代の神話である。’
花201902
Hubo un proglama de educación de tele sobre el filósofo Espinosa. Para mí, fue muuuuy dificil, pero creo que también es muy interesante. Aunque es pensamiento del siglo17, para pensar los problemas de discriminacion, de teoría de la responsabilidad de hoy sería útil suficientemente.


中世が終わり、今日にいたる近代化のきっかけになったのは、17世紀の政治思想や哲学なんだそうです。デカルトが登場して、数値やデータなどで「他者に絶対説明できること」を至上としてきて、ここまで来た現代。
そのおかげで世の中が発展し、その恩恵は言うまでもないけど、でも、さて、今のこの息苦しい時代は、なんなんでしょうね…
と考えた時に、スピノザの哲学を学ぶことは意義があると。
…たしか、そういうことだったか、100分で名著12月は「スピノザ」でした。
(旧年中の放送だったけど、わたしがテキストを読むのが遅くて、今これを書いています。)

わたしも年を取ってきたせいか、哲学のお話も、少しは興味がありますよ(分かりやすければ)……って。でもこれ、番組テキストから入ってたら、たぶん挫折してたの間違いなし。もちろん、原書の日本語訳など、読もうという気になるはずがありません。テキストに引用してある部分だけですら、何のことやらわかりませんでしたから。
しかし、幸いにもテレビから入ったので、担当の國分功一郎先生が、すごくわかりやすく解説してくれていまして、興味がわいてきました。いつも、このくらい分かりやすい先生だといいなー。

それでも、それをここできれいにまとめるのは、そんなに良いオツム持ってないわたしにはやっぱり難しい。
とはいえ、番組とテキストで思ったことの大部分は必ず忘れるので、ここになんでもよいから記しておき、忘れたときにまたこのブログを読むようにしたいです。で、ちょっとがんばって書いてみます。

先生曰く「わたしたちの思考とOSが違う」とおっしゃっていましたが、本当にそんな感じでした。
スピノザが考えていたことは、当時の政治にとっても宗教界にとっても、都合の悪いことばっかりで、生涯要注意人物だったとのことです。
よくもまあ、17世紀のキリスト教やユダヤ教の中に生きる世界で、「神すなわち自然」(すべてのものは、神の中にあり、わたしたちもまた、神の中のひとつの様態にすぎない)とか、すごい概念を生み出したね、と思いました。
そして、私たちが日ごろ漠然と前提としている、ものの見方がことごとく覆されます。

ざっくり書くと…

◆固定された善悪は存在しない。すべては関係性の組み合わせとしての善悪…私たちの存在の維持、活動能力を増大させるものを善、妨げるものを悪として捉える。

◇人の本質は、形によって決まらない。古代ギリシャから、見かけを本質と捉えられてきたが、スピノザは本質を「コナトゥス=自分の存在を維持しようとする力」と捉える。なんらかの刺激が働きかけてきて自分が置かれた状態が、自らになにかをするよう働きかける。その働きかけが欲望で、その欲望は本質そのものである。

■自由とは、制約がない状態のことではない。生きるものすべては、体を持つかぎり、可動範囲を持ち、有限の中で動く。
必然的な法則に従い、学びながら、だんだんとうまく動かせるようになる。これを能動的にこなせるようになるのが自由。
これを無視され、受動的に動かされる「強制」こそが、「自由」の反語である。

□他者と関わりながら生きていく限り、全くの能動にはならず、どこか必ず受動的な部分がある。全くの自由ということはありえない。
「私の意思で」「君の意思で」というが、これを自発的な「自由意志」というのは間違いだ。必ず、何者からの影響や命令を受けており、何の影響も受けていないことはありえないからだ。意思がゼロから生まれたように感じられるのは、その原因を知らないからに他ならない。自由な意志の存在は認めないが、ただし、私たちが意思の存在を「意識」することは否定しない。


ここからは、わたしが思った感想です。

◆善悪の話
善悪を固定する概念だけだと、危ういのかも。いいことをしていると信じ込んでいるヤツにかぎって始末に負えないとか。大昔、酸素は生物にとって毒だった、という話も思い出しました。

◇人の本質の話
なるほどと思ったのは、人種、性別、LGBT、障害などの差別問題ですね。本質でなく、形にどうしてもとらわれている。
あと、何か大きな問題が起こった時に、どう動くか…に見られる「欲望」っていうのが、その人の本質なのかもしれないと思いました。隠していた自分が、表出する瞬間。

■自由の話
以前、サルトルをこの番組でやったとき、わたしにとっては本当に難解で、ブログにも何も書けませんでしたが、ひとつ、持った印象があって、
「自由な他人を尊重しながら自分も自由でいるの、結構しんどそうだな。」
でした。自由に必ずついてまわる孤独の深い沼に、あなたは耐えられるか。…ってイメージです。
でも、スピノザが言う自由は、そういうのとは違いそうです。先生は、例として、表面的には同じ行為である「お金を出す」にも、能動的な善意の寄付と、受動的なカツアゲによるものを挙げて、自由と強制を解説していました。
この考えなら、いろいろ抱えて不自由そうに見えても、能動的に動くことさえできれば、自由になれそうではないですかね。
まあ、実際には、雇われの身とって、それもなかなか難しいことが多いんですけど。

□自由意志の話
特に印象的だったのが、これについて先生が挙げた例でした。つまり、ここ最近多い、自己責任論のことです。
はい、これがあなたの選択ですね。ご自分で決定されたことですから、その責任はあなたにあります。と言われるアレ。わたしはテレビやネットで、この自己責任論が出てきて、なんかモヤモヤする場合は、「自己責任で」を「オレは知らない」と訳すことにしています。「オレにキャパはないんだから、頼るなよ。」いっそのこと、そう言ってくれたほうが、潔い。
先生の話だと、自由意志という概念は、古代からあったものではないとのことで、現代は「意思教?」と思うくらい、意思というものを信仰しすぎ、もう取り憑かれているんじゃないか、と言っていました。
わたしの所感としては、自分の意志…どっちかというと意思のなさかな?…からの選択の結果、自分の人生に満足できてない部分が多くあるとしても、半分は社会環境のせいでもあると思っていて、自分と社会のどちらもを、ひどく責めていないつもりです。ただ、もしも、そこを全て自己責任にしてくるヤツがいたとしたら、お前はひとり無人島から始めて今のポジションを勝ち取ってこいや。と返したいですね。

こうして、ちょっとだけわかったこと、思ったことを並べてみましたが、スピノザが言っていることは、現代に生きる弱者にとってこそ、心強いような気がします。何かを理解する体験のプロセスを大切にした哲学なので、その後の方向には取り残された感じになってしまったのかもしれません。現代人は、近代の考え方になっているので、スピノザのOSが違うと感じるのだそうです。
でも、経済活動の大きな思惑の渦の中で、いくらでも代わりがいる単なる駒のひとつみたいな扱いを受けたり、自由意志や差別の問題など、現代人が抱える悩みのすぐそばで、この概念の存在が少しでも意識の中にあれば、もう少し豊かな気持ちで生きて行けそうな気がします。

番組のHPのまとめを読んだら、すばらしくきれいにまとめてあったので、こっちを読んで思い出したほうが、よくわかると思います。
100分de名著-スピノザ「エチカ」

| 日記・つぶやき diario | 00:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

お嫁に出た犬

‘犬張り子’ たぶん7号。
犬張り子201902-1
Les regalé este perrito cerámico que hice a una pareja que tienen bebé nacido aquí en Hiroshima al otro día.
Este tipo es tradicional, una mascota para rezar feliz alumbramiento y para buen crecimiento de bebé. Perros tienen buenos partos, y sus bebes crecen bien.

11月の陶芸で上がってきた犬張り子を、子どもが産まれた人にプレゼントしました。こいつもそのうち、海を渡るのかな。
カゴに入れてから写真を撮り、プレゼントした後で、過去に作陶した犬張り子をこのブログ内で振り返ってみました。

2009年にお嫁に行った子(ラッピング済み)
ラッピングなしのとき

2006年にお嫁に行った子(ラッピング済み)

こうして見ると、過去の、仁清土に白マット釉をかけ、その上から顔料で絵付けしたものは、ツヤがあまりないけどなんともいえない柔らかさがあります。
最近は、ちょっとその技法からは遠ざかっていて、磁土を素焼きしてから絵付けをし、焼き締めにしています。だから今回のは、さらにツヤのない白さが際立ち、絵の具はこっちのほうがくっきり表れています。
比べると、どうしてもこっちが冷たそうなんだけど、ではどうして最近こちらの技法を選んでいるかというと、釉薬が強かった場合、ちょっと流れちゃって、色が曇ることがあるからなんですね。それがこちら。(でも、その子の顔の表情は気に入っている。)
うーん、次回やるとしたら、久しぶりに過去の技法に戻ってみるかな。

| その他自分の作品 mis obras | 21:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

今日の陶芸

‘吊り鉢’ 焼き締め
陶芸190210
Macetas para colgar

先月の陶芸の記録は、めずらしく失念して書いていませんでした。でもそれはつまり、書きたい欲求もそんなになかったんですね。
受け取る作品がなかったのと、そして今年始めの陶芸だったのに、新たな気持ちも足りなかったのか、本当に不調で、土いじりをして帰ったようなありさまでした。

さて、今回はといえば、昨年中に作陶した吊り鉢が上がってきました。玄関の外に鉢を置いてみたい気持ちがあるのですが、集合住宅なので、誰かに移動されるとか、または強風で階から落ちるとかは困るので、それがネックになっていました。
持って行かれなければよいのだったら、固定するのがいいので、吊り鉢として作ってみました。
できあがりは、電気窯のわりには、キツネ色の焼き色がついて、けっこう満足しています。
それにしても、吊れる場所はそんなにないので、吊れてもせいぜい1つか2つで、手入れが比較的ラクな植物の鉢を入れてみたいと思います。近々、ワイヤーか針金を買いに行くかな。もし、うまく飾れたらまたここに記録したいと思います。

本日の作陶メモ:
九谷土で、マグカップを2つ。お揃いの大きいものを作りたかったのに、小さめで、全然違う形のものができました。取手がしっかりついたかどうかが気になります。素焼きの段階で感触がよければ、絵付する予定ですが、磁土の器は、なかなか薄く作れなくて、今回も厚めになったかも。上手く薄く作れたら磁器のカップは飲みやすいし丈夫なんだんだけど、陶土の方が、薄く軽く作りやすい。
磁土で挑戦してダメ→年月を経て、懲りたのを忘れる→再挑戦してダメ→忘れる、っていうのを繰り返しているような気がします。

| 陶芸 ceramicas | 18:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

速谷神社の湯立神事

書くまでに時間が少し経過してしまいましたが、2月3日(日)午前10時、天皇陛下の御在位30年と御代替りを記念して、速谷神社では約460年ぶりに『湯立神事(ゆたてしんじ)』が再興されることになりました。
この情報をわたしは知らなかったのですが、事前に知ったうちの相方から、460年ぶりとは貴重だから行ってみよう、と誘われました。インドア派のこの方から外に誘われることも珍しかったので、ふたつ返事で見に行くことにしました。
なんでも、戦国大名の毛利元就の息子毛利隆元の書状の中に、湯立神事を執り行うための費用を奉納したことが書かれていたのを最後に、文献が残っていないそうで、そこから460年だそうです。

2人で非日常的な場所にはめったに出かけないので、なんならついでに宮島にでも寄ってみようか、とか、すこし楽しみにしていましたが、一緒に非日常的な場所に出かけることにすると、なぜかいつも雨が降るんですよね。楽しみにしていた一昨年の大阪も台風だったし、その前の大分の旅も、観光の日になったら雨でした。初めから振り返ったら、最初に出会った日も、結婚式も台風だったな。
2人合わせると雨っての、どうなんでしょうね…

それでも、神事の始まる午前中は、まだたいした量の雨ではなかったので、なんとか参加して見ることができました。


‘湯立神事がはじまった’
速谷神社20190203-1
Fui a la santuario sintoista de Hayatani. Al último día de este año (por calendario sintoista) se llama Setsubun, volvieron hacer ceremonia antigua desde hace unos 460 años. Calentan agua considerada una cosa limpia y sagrada. La echan hacia el santuario y hacia la gente por las ramas de bambú, para exorcizar mala suerte.

‘お供え物と、湯を炊く鍋’
速谷神社20190203-2
Las ofrendas y olla caliente

輪状のしめ縄を湯に浮かべ清めた後、鬼門とその反対側の2方向に矢を放ちます。(フリだけなのですが)

‘この笹を使います。’
速谷神社20190203-3

‘笹を湯に浸します’
速谷神社20190203-6
Mojan las ramas de bambú en el agua caliente.

‘笹についた湯を振りまいて厄払いをします’ シュワッ!っという音がしました。
速谷神社20190203-4
このあと、見物人たちにも撒いて厄払いをしてくださいました。
撒かれた湯は瞬時に冷めたと思うけど、神主さんたちはとても熱かったと思います。
よいものを見せていただきました。

‘門の近くに咲いていた白梅’
速谷神社20190203-5
Olían bien las flores de ciruela.


このあと、ふつうに豆まきと餅まき行事がありました。
年男・年女たちが投げる豆は全然遠くに飛ばなくて、餅は重いから飛ぶんだけどそれは数がなくて、結果、全然ゲットできませんでした。
相方曰く、
「幸せは、奪い取りに行かないと、あちらからは来てくれないってことよ。」
たしかに。
この行事に慣れていると思われる子どもは、「餅をください!餅をください!!」って、前列で叫んでましたもんね。あと、これまた慣れていると思われる家族は、小さな布製のかごに、めっちゃ豆の袋と餅を持っていました。いちご狩りかよ。
さっき、笹の葉で見物人への厄払いはしてもらったけど、わたしはその露が体にかかる場所にいたわけでもなかったので、なんとか記念が欲しいと思い、最後に配られた「湯立神事御料米」という、神事に使ったお米のおさがりを数十粒和紙にくるんだものをいただいて帰りました。
終わる頃には雨が強くなってきたので、せっかくの日曜日でまだお昼前だったけど、早々に帰りました。とても宮島に足を伸ばす気にはならなかったですよ。
その日の晩は、恵方巻きや鰯などの、節分イベント的なものは全然用意しなかったけど、神社でもらった米を入れてご飯を炊いたので、とりあえず満足しました。

| 非日常(遠出)excursiones | 23:42 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

2019年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年03月