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2019年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2020年02月

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神話的時間、創造する力と寛容な態度

先日のログ2回にわたって、
ドラマ「ゲゲゲの女房」と、児童図書「あやとりの記」について思ったことを書きました。

桃色月見草past

たまたま目にした上記作品から、神話的時間とは、「見えんけど、在る」ことではないかと思い、その時間軸が入ってくることによって、作られる世界が豊かだな、と思ったのでした。
思えば、何かをクリエイトするときに、「見えんけど、在る」がなければ、創り上げられないのでは。
子どもに「神話的時間」が必要だという話は、その子の「何かを作り上げる力」を伸ばそうということで、大人の都合ではそれを奪うことにもなる、ということなんだろうと思いました。

たぶん、わたしも知らないうちに、親からその芽をわりと摘まれてきたんだろうな、という気がします。(わたしより、もっと現実的な見方を表現する親だったし。)
そのせいなのかどうか、普段、わたしは「見えんけど、おるもの」が見えもしていなければ意識もしていないし、むしろ、唐突に誰かからそういう話をされるのは苦手なほうです。
日常的時間にどっぷり浸かっているからでしょうね。


でも、「神話的時間」のことを考えて(特にあやとりの記を読んで)みた後で思いました。
誰か親しい人のプライベートに関わることがあったとき、その中では、時間スイッチがもうひとつあることをちょっと覚えておくだけで、少しは他人に優しくなれるし、自分にも救われるのではないかと。

例えばもし、人形を抱いた孤独な老人に接することがあったとして、そのときその人をどう思って見るか。

1.人形しか相手がいなくてかわいそう。
2.大切にしているんですね。その子は、なんていう名前かな。

こういう場合、日常的時間でしか物事を見ないのだったら、哀れみの目で見てしまいそうですが、かわいそうなのは、むしろ神話的時間を共有できないこっち側であるような気がします。
できれば、2番のほうの姿勢になりたいです。
その老人は、きっとスイッチを両方持っているんだけれど、こちらが2番を選べば、お互いが幸せかなと思います。

もう亡くなった人のことを生きているように言ったり、かわいがっているサボテンに、まるで人間のように話しかけたり、そういう場面に出くわしたときに、「そうだね。」と言えたらいいな。

長々と、神話的時間のことを考えたりやめたりしていましたが、自分の中ではこういう結論になりました。
もし、ここまで読んでくださった人がいらっしゃったら、辛抱強いですね。ありがとうございました。

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「あやとりの記」を読んで

石牟礼道子さんの作品では、「苦海浄土」(1章)、「食べこしらえおままごと」を読んだことがあります。
熊本南部の方言で織りなされる人々と自然の交流が生き生きしていて、とても印象的だったので、それらより創作的な、物語としての作品「あやとりの記」を読んでみました。


“彼岸花” 物語に登場する。
彼岸花ー物語


この本は書店の児童書コーナーにあったのですが、350ページを超える文庫本で、子どもが簡単に読めるようには思えませんでした。しかも、読み始めてみると、1章からとても入りにくい世界。(でも、ここをクリアすると、2章以降はさらさら読めます。)
「みっちん」と呼ばれている主人公は4、5歳時の著者で、シャーマン的な、人の気持ちにすっとなりかわる気質があるため、まわりの人の気持ちや自然の持つ力を感じ取るセンサーがすごくて、山や川の神様または精霊のような、目に見えないものとの交流が描かれたり、彼女の意識が他の人と入れ替わったかと思えば、自分の意識に戻ったりと、なんとも混沌とした描き方なのです。


読み進めると、このお話に登場する人物は、老人と、大人だけど事情のある社会的弱者の人たちが主であることに気づきます。子どもである主人公みっちんと、これら社会的弱者の心の交流のお話で、素朴な熊本弁の会話に、土地の言い伝えや、自然の神様の話がからんできます。


・おもかさま(みっちんの盲目の祖母。精神を病んでいてよく彷徨する。)
・仙造やん (片足の老人。いつも馬を連れ、自然のものを採集して生活している)
・萩麿(仙造やんの愛馬)
・岩どん(海辺の火葬場の番人である爺さま)
・犬の仔せっちゃん(子犬を懐に入れている、大人の女乞食)
・ヒロム兄やん(孤児として育った、片目が見えない大男)

これらの人物が、とても良い心の持ち主で、著者は彼らを「すこし神様になりかけている人たち」と呼んでいます。
著者の、弱者に対する優しいまなざしは物語の中で一貫しています。
思うに、おもかさまも、シャーマン気質のある人で、みっちんが「日常的時間」に帰ってこれるのに対し、彼女は帰ってこれなくなった人なのかもしれない。


それから、「見えんけど、おる」のが
・「山の神さん」「川の神さん」など、自然を司る神様
・「あの衆(し)たち、あのひとたち」という、神様についている精霊のような存在
・「狐女(きつねじょ)」「わらすぐり」などの、化かす狐
・「髪長まんば」「迫んたぁま」など、不思議な妖怪のようなもの


このお話が深いなと思うのは、豊かな山と海の間に火葬場(死の場所)という土地の背景の中で、自然の恵みを神々に感謝しながら生きる人々、社会的弱者の無垢な心との交流を描いていることです。
おとぎ話のようなエピソードの向こうには貧困と差別など、厳しい部分が透けて見えるし、創作の物語ではあるけれど、リアルなものに思えます。土地に根付いた生と死。
現代の人が、土地に根付いたものを失って不安なのだとすれば、この物語の読後に、なんとなく豊かな気持ちにさせられるのは、自然なことかもしれません。


いちばんわたしの心に残ったのは、みっちんと岩どんの言葉のやりとりでした。
「赤ちゃんはみんな、海やら、川やらから、流れてくるちゅうのはほんと?」
という幼いみっちんに、岩どんが
「そうじゃのう、ああいう海から いのちちゅうのは、来たかもしれんな。」
と答える場面。
(略)
み「ひとりで?」
岩「ひとりでじゃとも」
(略)
み「舟に乗って?」
(略)
み「難儀なこっちゃなあ」
岩「この世にくるのは、お互い難儀なこっちゃ、大仕事じゃ」
岩「みっちんや、お前もよう来たのう、遠かところから」
み「爺さまもなあ」

例えば子どもが生まれた時、両親は「よく生まれてきたね」と子に感謝するかもしれませんが、自分の子でない人に「よくここまで来たね。」とは、なかなか気づけない。相手に対する最大限の尊厳だと思いました。


仮にもし、この物語を、日常的時間軸で描いたら、かなり絶望的な話になると思うんですよね。大人がマイノリティを語るときの、辛苦さばかりが際立つのではないかと。
神話的時間軸で描いているから、読んでいて救われるし、独特の魅力があるのだと思います。
昭和初期の、差別は今より際立っていただろう中でも、自然の豊かさの中で助け合って生きていた心根のきれいな人たち。そこに「見えんけど、おる」ものが、精神的な豊かさを与えていると思います。

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1章
普段「日常的時間」にばかり身を置いているわたしにとっては、物語の入口が入りにくいのは当たり前かと思いました。
祖母と孫が無数の雪を見上げる場面では、雪の一粒一粒が、「あのひとたち=客人=(自然の精霊)」で、それは天の祭の最中なのだ、ということかな。2回読んで、なんとか飲み込みました。
雪が「自然のもの」の自我を浮かび上がらせ、「人間」の自我を埋没させて、すべてを均一に白く包み込むイメージは、難しいけども、次の章に行くためには必要な舞台装置なのかもしれません。

3章、4章
「見えんけど、おる」存在が、一番怖く思える展開で、フラグの立った怖いもの見たさに、あっという間に読める章です。でも、一番怖いのは人間の業と薄情さかな。

8章
みっちんの意識が激しく乖離したりする章なので難しいのですが、ヒロム兄やんと木の洞にいる場面のイメージが、どこか「もののけ姫」を思い出させると思いました。
体を持たない声だけの「迫んたぁま(せこんたぁま)」という精霊が、ジブリの「こだま」っぽいなぁと。
「あやとりの記」は、もう40年近く前に書かれ、さらに舞台はそこから40年以上遡った時代の話なのですが、当時「迫んたぁま」のような精霊が存在すると、伝承があったのかもしれません。
山に分け入ったとき、どこからか説明できない音がして不安になることって、あると思うんですよね。そしたら迫んたぁまが生まれても不思議はないかと。
ジブリのこだまは、どうやって生まれたのか知りませんが、何かこういう古い民間の伝承からヒントを得たのかもしれないですね。

| 日記・つぶやき diario | 22:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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今日の陶芸

“古陶(細)のマグカップ” 絵付は呉須絵の具で、わら白釉掛け
陶芸200118-2
Hice 2 tazas para café y 1 muñeca. Ésta es de barro de cerámica.

今回の陶芸では、3つの作品が上がって来ました。昨年、満足できるものが少なく、自分に悔しい思いが多い年になりましたが、11月に古陶(細)の陶土で、背が高めのマグカップを作陶した折、わりとすんなり背を高く作ることができたのは、満足できたことでした。
結局、12月に焼貫呉須(あざやかな青)で絵付けをし、釉薬は少し白さを出したかったので、わら白釉を薄めにかけました。(古陶土の色は、ウォームグレーで、白くはないため。)
上の画像がそれです。絵の具の上から釉薬ですが、わりと、流れずにちゃんと青が出ました。


“九谷土のマグカップ” 古代呉須(紺系の青)で絵付け、透明釉
陶芸200118-1
Es de barro de porcelana. Dibujé unos frutos de rosa.

こちらは磁土なので、白さが映えます。ただ、陶土に比べ、伸ばしにくいので、だいたいいつもこのくらいの高さで仕上げてしまいます。これはローズヒップの絵柄にしました。
磁器のマグは、これまで伸ばしきれず削りきれず重たくなってしまった結果、使いたくないものがいくつもあるのですが、今回はまあまあの出来。比較的ストレスなくコーヒーが飲めそう。


“弁財天” 九谷土、絵付け、焼締め
陶芸200118-3
陶芸200118-4
El motivo es Benzaiten, dios budista. Hay muchos alrededores de Buda para ayudarlo, es muy complicado para explicarlos.

これは、他の作品の合間に、時間つぶしのように作った人形。
王様とか、プリンセスのようなものを作ろうかな、と思いましたが、やっぱり、唐突に思いついたものって、すぐに形にできないですね。やっているうちに、なぜか弁財天になりました。(笑)
まあ、弁財天なら、これまでにカレンダーなどに登場させたこともあるし、子供の頃にお参りに行ってた神社に弁財天さまいたと思うし。
神様の装束については、本当は細かな決まりがなにかあるのかもしれませんが、再現より自由にやってみたかったので、頭に花も咲かせました。


本日の作陶メモ:
古陶土のマグカップがわりとよく上に伸ばして作陶できたことと、九谷土のマグもまあまあだったことから、さらにステップアップしたいと思い、今度は九谷土をできるだけ上に薄く伸ばして作ってみようと思いました。
なので、九谷土で、長細い形のマグカップ2つ。なんとか、上に伸ばして作れました。絵付けする予定です。



| 陶芸 ceramicas | 23:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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神話的時間 朝ドラ「ゲゲゲの女房」から

“狐のお嫁さま”
私の曽祖母が話したという狐話もまた、作り話というものではない。知恵だと思う。
狐のお嫁さま(2012)


前ログからの続きです。
朝ドラ「ゲゲゲの女房」は、水木しげると奥さんの人生をベースに、妻のほうを主人公に作られたドラマでした。2010年のオンエア時には、私は乗り遅れて途中から見始めたので、前半よくわかっていなかったところがありました。
それで、昨年6月くらいから始まった再放送(先日すべて終わりました)を見ることにしたのですが、今の朝ドラからすれば、やっぱり少し傾向が違うなと思いました。
主人公がずっと「夫を支えること」しかしないのと、「目に見えないものがいる、と信じる世界の肯定」です。

水木しげるの描いている妖怪や、主人公が幼い時におばばから聞いた怖い話を、つくりごととは、決して言わなくて、むしろ、それを思うことが、苦しい生活に色を添えている。途中で他人から自信をなくさせられたりして「おらんのかな」と思うけれども、やっぱり、いると信じる二人。

「見えんけど、おる。」

結局、神話的時間とは、これなんじゃないかと思いました。
子どもにとって、これまで体験したことのなかった世界に触れる中では、想像をともなう手探り。「見えんけどおるもの」も、すっと信じられる。
年配者にとっては、亡くした身近な人を思う時、「見えんけど、おる」と思う。
時間の概念がなくなる時間ですよね。

このテレビドラマと並行しながら、石牟礼道子さんの「あやとりの記」を読んだら、これが「見えんけど、おる」のオンパレードで、この本の世界は「神話的時間」を語るマスターピースなのでは、と思うくらいの内容だったのでした。
石牟礼さんは熊本の水俣に根ざした作家で、前回書いた熊本子どもの本研究会も熊本なんですけど、熊本って、古くからの自然信仰やおとぎ話が豊かな場所なんでしょうね。

次回、「あやとりの記」について思ったことを書きます。

| 日記・つぶやき diario | 00:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「神話的時間」が気になって

20191109夕暮れ

「神話的時間」という言葉を初めて聞いたのは、東日本大震災の頃、高橋源一郎さんのツイートがtogetterにまとめられたものを読んだときでした。
私がこれを読んだのが、震災直前だったのか、それとも震災後にネットを読み漁っていたときだったのかはもう覚えていませんが、とにかく心にひっかかった言葉でした。
わたしたちが普段すごしている、スケジュールに縛られた時間が「日常的時間」だとすると、時間の概念がなくなってしまうような体験をしているときを「神話的時間」と呼ぶんだそうです。大人は日々忙殺されてこの時間を忘れがちになるけど、子供はこの時間を持つし、また老人も持つ、というようなお話でした。
でも、わかったような、わからないような。何かに夢中になったり、人を忍んだり、または想像する時間のことかな。それはファンタジーの世界なのか。ルーティーンじゃないってこと?で、なぜ神話的というのか。
なんとなくモヤモヤしていましたが、そのまま放って、やがて忘れました。

その後、2014年に父が亡くなりまして、そうすると、ふとまたこの言葉が気になり始めました。
高橋さんが、年老いるということは、自分が死ぬのではなく、周りの人間が死んでいくことだ、と書いておられましたけど、だれか身近な人、大切な人を亡くすと、目には見えないけれど、時折近くにいるような気がして、心で語りかけたりするものでしょう。老人はその時間が増えていくはずで、こういうのも神話的時間だったはず、と思い出しました。

それで、(それからまたずっと後にはなるけど)高橋さんが紹介していた本「神話的時間」(鶴見俊輔:熊本子どもの本研究会)を読んでみました。
その本は、主に子どもの情操教育にかかわることのほうが主体だったので(熊本子どもの本研究会出版なんだからそうだろうと思いますが ^^;)、正直なところ、わたしがほんとに欲しいものとしては物足りない気がしました。読解力不足なだけかもしれないのですが。つまり、わたしは、死者にかかわる神話的時間の話がもっと欲しかったんだろうと思います。
「神話的時間とは端的に言って何か」が、まだモヤモヤしたまま残っていました。

でも、最近、腑に落ちたんです。それは、朝ドラ「ゲゲゲの女房」再放送と、石牟礼道子「あやとりの記」を偶然同じ時期に見たり読んだりして思ったことでした。
くわしくは近日書ければと思います。

| 日記・つぶやき diario | 23:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鶴屋安芸の織部最中

“変わらない味”
織部最中2019-12019-2

織部最中2019-1
Oribe-monaka es un dulce, pruducido por Tsuruya-aki. Tiene tiendas en Kure y en Hiroshima.

久しぶりに、鶴屋安芸の織部最中を買いました。
呉には、いくつか美味しい和菓子屋があり、鶴屋安芸もそのひとつです。今は知らないのですが、わたしが子供のころは、葬式のときによくこの店の利休饅頭が配られたもので、親が持って帰ったそれを、不謹慎ながら楽しみにしてしまうくらい、他の店の饅頭とは一線を画した味だったのを覚えています。

織部最中は、このブログを始めた頃に知って食べてみたんですが、これもふつうの最中とは違うお菓子でした。
年末のM-1グランプリでミルクボーイがネタにしていたような、「歯にくっつく、それはモナカやろ」という現象があまりなく、焼麩のように厚い皮で(でも固くはない)、うすく糖がけしてあります。中は、白味噌の入った黄金色したコクのある白あんで、表面の抹茶の苦味がアクセントになっています。
2006年に記した記事がこちら。画像はあんこが見えます。
その後、呉店も広島市内の店も、近くに寄ることがなくご無沙汰していた時期があり、2年前だったか、久々に寄ってみると、さすがに値上がりしていました。そのときは織部最中はなかったので、利休饅頭を買って帰りました。

今、食べログとか見ても、以前の価格の写真しか載せられていないので、忘備録としてここに書いておきます。(2019年末現在)
織部最中 210円 (どら焼きくらいの径の最中。白味噌あん)
利休饅頭 170円 (皮に、独特の香ばしさと食感があり、やみつきになる風味。こしあん)
やまと饅頭 160円(くるみが乗っている。まだ試してないので、ぜひ食べてみたい。)
(税抜価格)

その他、栗饅頭などもあるんですけどね。(チェックし忘れた)

以前のわたしの最後の記憶から、どれも30〜40円くらいは値上がりしているけど、以前が安すぎたんだろうとも思います。
ひとつ、注文をつけるなら、パッケージかな。
わりと強度のある箱は別料金だったと記憶してるんですけど、地味ながら、これに入れて包装してもらうと、老舗感があるんです。
おそらく、自由に何個かずつ注文して詰めてもらえるはずなんですが、予算と組み合わせを考えているうちにちょっとめんど臭くなるというか。(わたしだけ?)
まあ、自分はそんなに改まったところで使う機会もあまりないので、せめて、不織布とかのミニバッグで何個か入ったのがあったらなぁ…つまり、土産に持っていける形での、ポーションにバリエーションがあればな、というところですね。

味はとても美味しいので、がんばってほしいです。


| 市販の食品など compradas | 20:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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2019年の100分de名著を振り返って

“七草粥”
七草2019


Eテレ「100分de名著」は、相変わらず見ておりまして、昨年2019年の、12個のお題も、なかなか興味深いものがありました。
その中で、「テレビの朗読」として印象的だったのが、6月「アルプスの少女ハイジ」(シュピリ)の安達祐実さん。朗読だけで、あんなに自由自在に人物の声色を分けられ、惹きつけるとは…女優だからわかってたつもりだったけど、おそるべし才能。

内容として興味深かったのが、2月「大衆の反逆」(オルテガ)でした。11月の「法華経」もよくて、書きたかったんですけど、それは再放送だったので、割愛します。

「大衆の反逆」について、けっこう今の世界的な時流に大事な話だったので、少し自分なりにテキストを要約してメモしておきたいと思っていました。でも、自分にはなかなかまとめにくくて、こんなに遅くなりました。(ふつう、ここまで遅いなら、その間にテキストだけじゃなく本書も読めばいいよね…でも読んでない。)
すばらしいまとめは、100分de名著HPのほうにあるので、それもふまえつつ。


以下、自分の忘備のためのメモ:

オルテガのいう「大衆」とは、トポス(=自分が意味ある人間として存在できる拠り所としての場所)なき人のことで、例えば、生まれた場所の共同体を離れ、いわば根無し草的に生きる、個性を失って群衆化した大量の人たちのことを指します。
これは産業革命以後、田舎から都会に出て働く人口が多くなって生まれた現象なんですね。〔8月の「戦争論」(カイヨワ)でも、この根無し草は登場していて、為政者間の戦争が国家戦争スタイルになっていった要因というのも、これだって話だったんですけど〕
田舎から出てきた人々は、都会で効率よく働かされるため、規律に縛られ、昔の共同体によって養われた個性を剥奪されます。その結果、「みんなと同じ」であることを喜ぶ「平均人」となってしまいます。根っこを持たない人間は、周りのことばかり気になるので、少しマジョリティと違った人間を見るのは、いちいち不安でしんどいのです。
「専門家」という人間も同じ大衆です。専門のことしか知らないから。大衆が教養を持たないのは、専門化されてしまったから。幅広く知恵を持っているわけではないのです。

オルテガは、「大衆」に対する、教養を備えた人のことを「貴族」と呼んで区別しているのですが、この言葉は、ふつうに日本語で言ってしまうと誤解されそうだなと思いました。特権階級とかセレブのことを言っているのではなく、教養があり、精神的にわきまえた人のことを言っているんですが、日本語でもっとよい訳はないんですかね。個人的に、なんかしっくりこないんですよね。テキストでは「人格的貴族」という言葉がありました。
まあ、英語で貴族=noble、スペイン語でもnoblezaで、高潔とか高尚とかいう意味を持ち合わせるので、外国語ならしっくりくるんでしょうね。

オルテガはリベラルで保守派
アメリカの政治で使っている、保守vsリベラルという構図がそのまま日本でも使われている今日この頃なので、どうしてもリベラル=左派みたいなイメージになってしまうのですが、オルテガのいうリベラルは、むしろ保守派です。
なので、アメリカに倣った日本のマスコミが使っている意味とは合致していなくて、これも説明なしで使うのは誤解されそうです。
もともと、「リベラル」は、寛容という意味で、自分と異なる価値観を持った人間を認めよう、という考えだったそうです(自由主義)。こっちの意味で使われています。
あなたの信じることを認めるから、わたしの信じることも認めてください。というのは、しかし、大勢で共有するとなると、非常に面倒で鍛錬を伴います。それは、敵とともに生きることを是とするから。
人々が自分の居場所を持ち、他者と共存しながら自分の役割を果たそうとする人になれば、パンを求めてパン屋を破壊するような(自由を求めて自由を破壊する)まねはしなくなる、と言っています。
そして、自分たちの背後にある、死者たちの歴史を無視して物事を決めることを、大変危惧していています。「大衆」が、「現代は過去より優れている」と、自分たちを優位に思い込んで過去を切り捨てる(超民主主義)、それは傲りだと。

これ、ファシズムの時代(1930年)に刊行されたんだそうですけど、それからずっと時が経っているというのに、今のことみたいじゃないですか?
大勢を装って気軽にSNSで何かを糾弾すれば、大きな議論もなしにさらりと状況が変わったりして、ペラペラな考えで決断。なんだか危ない空気の世の中になりつつあるようじゃないかと考えさせられます。

オルテガの考えだと、これまで、民主主義を優先させてきたが、「立憲主義」(死者=過去に決められ、国民が権力を縛るルール)が必要ではないか。
(今解釈すると、たとえば、裁判所が国家に関わる憲法判断をしない、などあったけど、司法がもっと強くてもよいのでは)

「私は、私と私の環境である」…裸の個人主義の否定


テキスト第4章では、オルテガの他に数人、
・トクヴィル…マスメディアの発達により、多数者による専制が生まれ、人々の自由が抑圧される。
・西部邁  …自民族中心の思想こそが大衆主義の典型だ。「懐疑することを疑うな」
・パットナム…国家と個人の中間領域が厚いと、社会がうまくいく。
 ポピュリズムの蔓延は、近所のつながりがなくなってしまったことと関係がある。
 現代では、ムラ社会に戻るのではなく、ブリッジング(複数の共同体に入れるしくみ)が望ましい。

など、こういったことも紹介されていました。
見落としているところもあるかもしれませんが、ざっとこんな感じだったかと。ふぅ。




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2020年カレンダー御礼

正月2020
Feliz año nuevo!


この年末、年明けにかけて、カレンダーをお求めくださった方々、ありがとうございました。
今年は、「畑を彩る12か月 農の花」というタイトルで、野菜や果物が持つ、花の姿をテーマに作成しました。
昨年までは、途中経過もここでお知らせしてきたものでしたが、なぜかどんどん時間的余裕がなくなり(年々、頑張れなくなっているのかな)、最初の告知以降はダンマリのまま進めました。
今回わりと地味なテーマだったかな、と思いましたが、力強い言葉で肯定してくださる方もいらっしゃいまして、背中を押され、最後まで作成して無事に届けることができました。
本当に、手に取ってくださった方々に励まされて、次があるのです。感謝です。

今年が、みなさまにとって、喜びの多い年となりますよう、お祈り申し上げます。


“カレンダー2020” 完成版
カレンダー2020完成版
Ya he terminado todo de trabajos de mi calendario por fin! Ahora estoy tranquilizada. A las personas que recibieron uno, les deseo tener buena suerte, cada día grabado en mi calendario.

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「この世界の-さらにいくつもの-片隅に」を見て

“満員御礼だった” 八丁座、昼頃のサロン。
この世界のさらに20200103
Fui a ver la película “En este ríncon del mundo“ versión perfecta. Hace 3años desde que 1r versión se estrenó. Aunque fue muy buena, había quitado unos episodios con una mujer importante para la protagonista. Ahora la historia se ha renacido por dandolos. Siento que esta obra salió acercada del original, y más profunda.


「この世界の-さらにいくつもの-片隅に」に、やっと行ってきました。
昼頃には、ごらんの写真のようなことに。ネットで席をとっておいてよかったです。
自分たちも含め、客層は、やっぱり中高年が多かったかな。
…というか、3年前の完成作品にくらべ、リンさんのエピソードが色濃く追加された、完全版とでもいうべき作品になった今回の映画は、もっと大人向きになっているんですよね。もっと、心のひだが複雑に描かれていて、「自分の居場所」に悩む主人公が深まったというか、立体的になったというか。
起こる事象、結末は知っているけど、それでも、涙が止まらないですね。
2時間40分以上の尺は、重厚な感じで、よくアニメでここまで作ったなぁ、と思うのですが、見ている分にはあっという間でした。

3年前の「この世界の片隅に」がきっかけで、その後、友人の同人誌に、自分の母の少女時代の回想漫画を描くことになったわたしとしては、どうしても「晴美さん」と自分の母を重ねてしまうところがあります。
母が晴美さんだったら、私は生まれてない。
晴美さんが母だったら、それなりにがんばって、家族を築くお母さん、お祖母さんになっていたのだろうかと。

このお話は、「あの人は、もう一人のわたしだったかもしれない」が、いろいろ考えられるので、上記のような、個人的な置き換えも、そんなに間違った見方でもないなと思いました。

平和のことを考える時、自分を相手に置き換えて考えられるかどうかというのは大切なことですよね。
直接的な戦争の残酷さも描いているけれど、見終わった時に、独特のあたたかさがあるのは、置き換える対比や優しさを色濃く描くことによって、考えさせてくれるからなのかなぁと思いました。
これまで応援してきてよかった映画でした。ほんとに、よかったです。

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