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苦海浄土(わが水俣病)を読んで

‘椿’  著者は、美しい不知火海を「椿の海」と呼んでいた。
薮椿1


ちょうどこの本を読み終えて、巻末の解説を読んでいたときに、著者の石牟礼道子さんが亡くなりました。
テレビでニュースを見ていると、生前の活動を「文明の病としての水俣病問題に向き合い…」みたいな紹介がされていました。
それを聞きながら、「文明の病か…それには2つの意味があるな」と思いました。
ひとつは、有機水銀を海に垂れ流し続けたせいで、多数の中毒患者と死者を出した、その病気
もうひとつは、経済優先で人命を軽視し、事実に向き合わず臭いものに蓋をした、社会の病気

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Eテレ「100分de名著」で、2016年に取り上げられるまでは、その存在を知らず、番組が始まる前の紹介でも、公害病の話か…気が重いテーマだなぁ…くらいに思っていました。

確かに重かったけど、番組のテキスト(以下、テキストと呼ぶ)にあった、著者が近年雑誌に寄稿した数行や、さらに「苦海浄土」本編の数行の断片(それは患者と、その家族によるモノローグ部分だったのですが ) 、それを読んだら、一気に引き込まれました。
悲しいけど、ものすごく美しかったから。

それで、いずれは原書を読んでみたい、と思いました。
わたしが特に興味があったのは、前述のモノローグに大変惹きつけられたので、ほかにどのような言葉があったのか読んでみたかったこと。
圧倒的な理不尽さによって、全てと言っていいくらい多くを失った人々なのだけれど、恨み言を言う表現があまり多く描かれていなさそうで、どういう状況と心理だったんだろうという疑問。
テキストの解説では、「この本は、なかなか全部読めないかもしれないけど、全部読めなくてもいいから断片的にでも読んでみて欲しい」というようなことを言われていて、読破する自信はなかったけどとにかく読んでみることにしました。

「苦海浄土(わが水俣病)」(新装版・講談社文庫)を買って、しばらく読むと「あれ?これ全部読めそう」と思いましたが、350ページくらいあった作品の最後に(第一部終)という一文があって、なるほどなと思いました。
これ、全部読んでもまだ、第2部と第3部が別にあるんですよ。(遠い目になる)
長い時間をかけて、著者がずーっと近年まで書いてこられた全3部で完結した作品のうち、1972年に発行された第1部だったのでした。


そんなわけで、第1部だけ…とはいえ、内容が濃いので長くなりますが、感想を記してみます。
読んでみると、テキストにも説明してあったように、ドキュメンタリーのようなのに、完全ドキュメントでもなく、けれどもフィクションかと言われればそうでもなく、書いてある本質は本当のこと…という、とても説明しにくい作品でした。
わたしはあまり本を読むほうじゃないけど、読むときには、だいたい寝る前の睡眠薬代わりのように少しずつ読んでから眠りにつくのが常なのですが、この本に限っては、かえって眠れなくなるくらい衝撃的でした。

寝られなくなるくらい、当時のチッソの対応のクズっぷりが凄まじかった。
戦後復興、高度経済成長時の、社会全体がアゲアゲだったろう気分の裏の、暗い影の部分。
今は、ここまでやったら会社はすぐお終いだなぁと思ったけど、それはひとえにこれを含む公害病事件の苦難と戦いの歴史の結果、徐々に皆の意識が引き上げられたからですね。心が痛む記録は読んでいて辛いけど、「少しはマシになった今」はその犠牲や努力の上に、できあがったモラルなのだということが、じわじわ来ます。戦没者に祈るなら、公害病の犠牲者にも祈るべきじゃないかな。

それにしても、なんか、これ、今の原発問題にすごく重なるなぁ…

国策がからむ大企業と、それ頼みの自治体、そこに暮らす市民と被害者の関係の構造は、今も根本的には変わっていなくて、東日本大震災の原発事故の後に見られた動きにそっくりな部分も多いように思いました。
水俣の場合、当時、国や警察ばかりでなく、市民も全然被害者の味方ではなく、「お前ら患者のせいで市のイメージが堕ちた」ように扱われたし、チッソは長年水銀垂れ流しを隠蔽しただけでなく、見つかれば自らに都合のいい示談をのませ、新潟の第2水俣病を未然に防ぐことができませんでした。
でも、その新潟の事件を糸口に、国の問題として露わになったのだそうで、それがなければ、水俣は本当に事実を黙殺されたままになっていたかもしれず、(でも、黙殺された時間が長いので、全容が判らないことが多く、今もまだ係争中の裁判がある。)本当に怖いと思いました。


ここまで長々と書いてしまいました。が、この本の文学的価値、心を捉えて離さない部分は、そこではないと思います。
やはり、患者と家族のモノローグ部分だと思います。特に、「ゆき女きき書」と「天の魚」の章。
巻末の解説で、渡辺京二さんが、「彼女は記録作家ではなく、幻想的詩人だ」と書いていましたが、詩とも呼べるのかな、熊本弁語りの部分がすごいです。

「うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。…もういっぺん、行こうごたる。あの海に。」
という、「ゆき女きき書」の章では、漁に出ていたときの自然と生活の描写が、ひときわ鮮やかでした。
「天の魚」の章では、患者の孫をかかえた爺さまが、老い先短い我が身と、孫の未来を憂えた話をするのですが、自然信仰が生活に密接して描かれていました。爺さま、息子の逃げた嫁を恨んでないんですよね。彼女を「しあわせの悪かおなご」というのは、「よい運に恵まれない女」ということで。
この2つの章、どちらの章も大変切ないけれど、やわらかい熊本弁で語られる言葉は、ちょっとおとぎ話のような雰囲気というか、浄瑠璃の物語のような魅力があって、なんてきれいな文だろうと思いました。「美し」と「愛し」は「かなし」と読めるんだというのが、すっと納得できる感じ。熊本弁っていいなと、初めて思いました。きっと、この章だけでも読む価値があります。
ちょっと見には、患者が語るドキュメンタリーに見えるこれらは、本当は、病気で言葉を失った彼らに著者が「成り代わって」書いていて、それは、絶望感とか喪失感をどこかしらで共有していないと、とても描けない。その中で見ている幻想。これらの章の美しさは、暗い場所に置かれているほど発光体の美しさが際立つ、みたいなことなんでしょうか。
このモノローグは、できることなら空に上げ、星座にして祈りたいような気持ちになりました。


おそらく、2部、3部では、時間がどんどん経過していき、わたしが知りたかった
「圧倒的な理不尽が襲いかかってきたとき、人はどう生きようとするのか。何に救われるのか。」
「恨みでない感情が人の心を打つのはなぜか。」
が、もっと深く掘り下げられているのではないかと想像します。
テキストにちょっとだけ出てきた、きよ子と桜の話も、ちゃんと読んでみたいです。
ただ、読むのにはエネルギーが必要で、第1部読んだだけで、かなり疲れました。重いし、深く問いをつきつけられる量が半端ないです。
2部、3部も、たぶん1部の量くらいあるようなので、テキストに
「すぐには読めないかもしれない。手が止まることがあるかもしれない。」
とあったのに頷きました。次を読むとしたら、ある程度時間が経って、エネルギー溜めてから。または、自分に難しい局面がやってきた時。
出版社へのお願いとしては、できれば、2部、3部も、分けて文庫本にしてほしいし、文庫らしい値段にしてほしい。
アマゾンで全3部が一冊というのがありましたが、安易に手にとれない価格とページ数なんですよね。
そして、亡くなってしまわれたからなのかなぁ…先日よりもっと高値になってないかな…気のせい?
とりあえず、あまり多くなさそうだけど、この方の軽いエッセイでも読んでみようかな。彼女の、自然とのかかわり、詩的な表現は好いと思いました。読んでいて、「神話的時間」ていうキーワードが頭に浮かんできました。
最後になりましたが、石牟礼道子さんのご冥福をお祈りします。彼女の考え方に従えば、きっとその魂は自然の花々に宿るのだろうなと思います。

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