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「あやとりの記」を読んで

石牟礼道子さんの作品では、「苦海浄土」(1章)、「食べこしらえおままごと」を読んだことがあります。
熊本南部の方言で織りなされる人々と自然の交流が生き生きしていて、とても印象的だったので、それらより創作的な、物語としての作品「あやとりの記」を読んでみました。


“彼岸花” 物語に登場する。
彼岸花ー物語


この本は書店の児童書コーナーにあったのですが、350ページを超える文庫本で、子どもが簡単に読めるようには思えませんでした。しかも、読み始めてみると、1章からとても入りにくい世界。(でも、ここをクリアすると、2章以降はさらさら読めます。)
「みっちん」と呼ばれている主人公は4、5歳時の著者で、シャーマン的な、人の気持ちにすっとなりかわる気質があるため、まわりの人の気持ちや自然の持つ力を感じ取るセンサーがすごくて、山や川の神様または精霊のような、目に見えないものとの交流が描かれたり、彼女の意識が他の人と入れ替わったかと思えば、自分の意識に戻ったりと、なんとも混沌とした描き方なのです。


読み進めると、このお話に登場する人物は、老人と、大人だけど事情のある社会的弱者の人たちが主であることに気づきます。子どもである主人公みっちんと、これら社会的弱者の心の交流のお話で、素朴な熊本弁の会話に、土地の言い伝えや、自然の神様の話がからんできます。


・おもかさま(みっちんの盲目の祖母。精神を病んでいてよく彷徨する。)
・仙造やん (片足の老人。いつも馬を連れ、自然のものを採集して生活している)
・萩麿(仙造やんの愛馬)
・岩どん(海辺の火葬場の番人である爺さま)
・犬の仔せっちゃん(子犬を懐に入れている、大人の女乞食)
・ヒロム兄やん(孤児として育った、片目が見えない大男)

これらの人物が、とても良い心の持ち主で、著者は彼らを「すこし神様になりかけている人たち」と呼んでいます。
著者の、弱者に対する優しいまなざしは物語の中で一貫しています。
思うに、おもかさまも、シャーマン気質のある人で、みっちんが「日常的時間」に帰ってこれるのに対し、彼女は帰ってこれなくなった人なのかもしれない。


それから、「見えんけど、おる」のが
・「山の神さん」「川の神さん」など、自然を司る神様
・「あの衆(し)たち、あのひとたち」という、神様についている精霊のような存在
・「狐女(きつねじょ)」「わらすぐり」などの、化かす狐
・「髪長まんば」「迫んたぁま」など、不思議な妖怪のようなもの


このお話が深いなと思うのは、豊かな山と海の間に火葬場(死の場所)という土地の背景の中で、自然の恵みを神々に感謝しながら生きる人々、社会的弱者の無垢な心との交流を描いていることです。
おとぎ話のようなエピソードの向こうには貧困と差別など、厳しい部分が透けて見えるし、創作の物語ではあるけれど、リアルなものに思えます。土地に根付いた生と死。
現代の人が、土地に根付いたものを失って不安なのだとすれば、この物語の読後に、なんとなく豊かな気持ちにさせられるのは、自然なことかもしれません。


いちばんわたしの心に残ったのは、みっちんと岩どんの言葉のやりとりでした。
「赤ちゃんはみんな、海やら、川やらから、流れてくるちゅうのはほんと?」
という幼いみっちんに、岩どんが
「そうじゃのう、ああいう海から いのちちゅうのは、来たかもしれんな。」
と答える場面。
(略)
み「ひとりで?」
岩「ひとりでじゃとも」
(略)
み「舟に乗って?」
(略)
み「難儀なこっちゃなあ」
岩「この世にくるのは、お互い難儀なこっちゃ、大仕事じゃ」
岩「みっちんや、お前もよう来たのう、遠かところから」
み「爺さまもなあ」

例えば子どもが生まれた時、両親は「よく生まれてきたね」と子に感謝するかもしれませんが、自分の子でない人に「よくここまで来たね。」とは、なかなか気づけない。相手に対する最大限の尊厳だと思いました。


仮にもし、この物語を、日常的時間軸で描いたら、かなり絶望的な話になると思うんですよね。大人がマイノリティを語るときの、辛苦さばかりが際立つのではないかと。
神話的時間軸で描いているから、読んでいて救われるし、独特の魅力があるのだと思います。
昭和初期の、差別は今より際立っていただろう中でも、自然の豊かさの中で助け合って生きていた心根のきれいな人たち。そこに「見えんけど、おる」ものが、精神的な豊かさを与えていると思います。

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1章
普段「日常的時間」にばかり身を置いているわたしにとっては、物語の入口が入りにくいのは当たり前かと思いました。
祖母と孫が無数の雪を見上げる場面では、雪の一粒一粒が、「あのひとたち=客人=(自然の精霊)」で、それは天の祭の最中なのだ、ということかな。2回読んで、なんとか飲み込みました。
雪が「自然のもの」の自我を浮かび上がらせ、「人間」の自我を埋没させて、すべてを均一に白く包み込むイメージは、難しいけども、次の章に行くためには必要な舞台装置なのかもしれません。

3章、4章
「見えんけど、おる」存在が、一番怖く思える展開で、フラグの立った怖いもの見たさに、あっという間に読める章です。でも、一番怖いのは人間の業と薄情さかな。

8章
みっちんの意識が激しく乖離したりする章なので難しいのですが、ヒロム兄やんと木の洞にいる場面のイメージが、どこか「もののけ姫」を思い出させると思いました。
体を持たない声だけの「迫んたぁま(せこんたぁま)」という精霊が、ジブリの「こだま」っぽいなぁと。
「あやとりの記」は、もう40年近く前に書かれ、さらに舞台はそこから40年以上遡った時代の話なのですが、当時「迫んたぁま」のような精霊が存在すると、伝承があったのかもしれません。
山に分け入ったとき、どこからか説明できない音がして不安になることって、あると思うんですよね。そしたら迫んたぁまが生まれても不思議はないかと。
ジブリのこだまは、どうやって生まれたのか知りませんが、何かこういう古い民間の伝承からヒントを得たのかもしれないですね。

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