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神話的時間、創造する力と寛容な態度

先日のログ2回にわたって、
ドラマ「ゲゲゲの女房」と、児童図書「あやとりの記」について思ったことを書きました。

桃色月見草past

たまたま目にした上記作品から、神話的時間とは、「見えんけど、在る」ことではないかと思い、その時間軸が入ってくることによって、作られる世界が豊かだな、と思ったのでした。
思えば、何かをクリエイトするときに、「見えんけど、在る」がなければ、創り上げられないのでは。
子どもに「神話的時間」が必要だという話は、その子の「何かを作り上げる力」を伸ばそうということで、大人の都合ではそれを奪うことにもなる、ということなんだろうと思いました。

たぶん、わたしも知らないうちに、親からその芽をわりと摘まれてきたんだろうな、という気がします。(わたしより、もっと現実的な見方を表現する親だったし。)
そのせいなのかどうか、普段、わたしは「見えんけど、おるもの」が見えもしていなければ意識もしていないし、むしろ、唐突に誰かからそういう話をされるのは苦手なほうです。
日常的時間にどっぷり浸かっているからでしょうね。


でも、「神話的時間」のことを考えて(特にあやとりの記を読んで)みた後で思いました。
誰か親しい人のプライベートに関わることがあったとき、その中では、時間スイッチがもうひとつあることをちょっと覚えておくだけで、少しは他人に優しくなれるし、自分にも救われるのではないかと。

例えばもし、人形を抱いた孤独な老人に接することがあったとして、そのときその人をどう思って見るか。

1.人形しか相手がいなくてかわいそう。
2.大切にしているんですね。その子は、なんていう名前かな。

こういう場合、日常的時間でしか物事を見ないのだったら、哀れみの目で見てしまいそうですが、かわいそうなのは、むしろ神話的時間を共有できないこっち側であるような気がします。
できれば、2番のほうの姿勢になりたいです。
その老人は、きっとスイッチを両方持っているんだけれど、こちらが2番を選べば、お互いが幸せかなと思います。

もう亡くなった人のことを生きているように言ったり、かわいがっているサボテンに、まるで人間のように話しかけたり、そういう場面に出くわしたときに、「そうだね。」と言えたらいいな。

長々と、神話的時間のことを考えたりやめたりしていましたが、自分の中ではこういう結論になりました。
もし、ここまで読んでくださった人がいらっしゃったら、辛抱強いですね。ありがとうございました。

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