FC2ブログ

≫ EDIT

近況、ドラッグストアと小説

“カーネーション” 長持ちでよい香り
カーネーション200215
Veo que aumentarán los pacientes por virus COVID-19 por Japón también. Todavía no han llegado a Hiroshima ahora, pero llegarán por aquí pronto tal vez. Ya no podemos encontrado máscaras ni decinfectante de alcohol en las tiendas. Pero no tenemos más remedio que estar tranquilos, es que faltan muchas cosas a todos. Me voy a lavar las manos cuidadosamente, y hacer gárgaras también.


先日までは対岸の火事だった新型コロナウィルス肺炎も、もうすぐこっちまで来そうな勢い。
このあたりでも、数週間前にはあったと思われるマスクとアルコール消毒液が、ドラッグストアから姿を消しました。使い捨てマスクだったら、1日1枚だとしても、1ヶ月30枚は必要なんだから、足らないとかいうより、もう全然ダメじゃないですかね。そんなにみんな持っていると思えないし。エタノールそのものも、お店から消えてました。
テレビを見ていると、どこかの野球オープン戦のもようが映っていました。マスコットが「マスクをしましょう」っていうプラカードを持ってたと思うんですが、球場で支給されるんだったらともかく、自分で用意するということなら、
 買えなかった=来る権利なし
になってくるんですよね。まあ、買えたからって、絶対にうつらない保証もないんですけど。
今後、ますます行動が限られることになるのかな。健康にも、経済的にも、すごい損失になりそうで怖いです。


こんなときになんですが、今読んでいるのが、カミュの小説「ペスト」です。
夜、ふとんの中で本を読むのは、寝つきの悪くなったここ最近の話でして、眠るために読んでいるのです。よって、せいぜい2〜4ページくらいで寝落ちしてしまいます。
そんな読み方なので、まだ始めの方しか読んでないんですが、ちょうど、ペスト流行が本格的に近づいてきているところなので、すごくシンクロする部分があり、リアルにじわじわ来ています。
こんな話の本を選んじゃって、かえって寝られなくならないかしら。でも、1年半前に100分de名著でやったので、いずれ読みたいと思っていた本だったのです。これから数週間後に、シャレにならないとか、もう読みたくない状況に陥っているようなこと、どうかどうかありませんように。
マスクもほとんど手もとにない今、とりあえず、手洗いとうがいをこまめにやります。



| 日記・つぶやき diario | 23:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

今日の陶芸

“白マット釉の花器に春蘭”
春蘭ー陶芸
El florero que hice antes, con orquídeas silvestres.

今回は、焼き上がってきた作品はなかったので、数年前に作陶した花器に挿した春蘭でもごらんください。
前回作陶したマグカップの素焼きがふたつ、上がってきていたので、絵付けをしました。
いつも、何の絵にするか悩みますが、今回はナズナの花6本と小さな蝶を描きました。ナズナは、以前にも一度描いたことがありましたが、そのときの作品は出来上がった形や重さなどが気に入りませんでした。
今回は、そのときよりずいぶんよいと思います。ただ、作陶時よりけっこう縮んでおり、思ったほどの大きさに仕上がらないかもしれません。もしかしたら、2回目の焼きで、もっと縮むかもしれないので。

本日の作陶メモ:
一輪挿し用の花器を、つる土(白)でひとつ。電動ろくろで作りました。細長い作品を電動で作ることができるかが、最近の個人的な技術テーマなので作ってみましたが、やっぱり難しい。
薄く細長く伸ばすといっても、指は届かなくなるので、木の道具を使って伸ばすのだけれど。私のテクでは、一旦胴を広げ、口を小さく作るのはおそらく無理だと思ったので、口部分は、別に作り、後で胴とつなげて完成させました。

つる土を使ったのは初めてでした。「つる」と言っているのに、ザラザラしてるんだそうです。まぎらわしいな。でも、作陶時には、それはあまり感じませんでした。土色は、少し黄味がかった白になるそうで、それなら、部分的な白化粧でトーンの違いを出しても面白そうだと思いましたが、白化粧するには時間がありませんでした。なので、たぶん、わら白と空釉の掛け分けにする予定。

| 陶芸 ceramicas | 23:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

木綿豆腐は生き残れるか

“白濁した湯豆腐” 重曹を少々入れると、溶けて濁り、マイルドに。
湯豆腐ー白濁
Olla de tofu. Añadido un poco de biocarbonato, el agua se queda blanca, se pierde la transparencia. Lo comemos con salsa de soja.


年々、湯豆腐がしみじみとおいしく感じられるようになり、そういうところに「年とっちゃったかな」と感じる今日この頃です。
うちでは、ほとんど毎日豆腐が冷蔵庫に入っているのですが、昨年、秋になってから、よく買っていた県内メーカーの豆腐をみかけなくなりました。
以前、贔屓にしていた醤油が、気づいたときにはメーカーが倒産してて、とっくになくなってたということがあったから、今回は「もしや?」と気づくのがわりと早めではあったのだけど、やっぱり倒産していてショック。消費期限が早い加工食品だから、買いだめできるはずもなかったし。

「…なんで、わたしが買ってるもの、どんどんなくなっていくんだろう」
と思ったりしてるんですけど、味噌・醤油・豆腐・蒲鉾・こんにゃく・酒など、地域に根付いていた小さな規模の商店は、大手流通に押され、どんどんやめざるを得なくなっているところが多いんでしょうね。残念。

豆腐に関して言えば、比較的大きな数社が充填豆腐(型にはめて固めた絹ごし豆腐)をどんどん出しており、昔に比べて、売り場に木綿豆腐が少なくなっている気がします。充填豆腐だと、オートメーションで作りやすいし、日持ちするんですよね。木綿豆腐は少し手間かかるしね。

少し前、なりゆきでイ○ンが出しているPB商品の木綿豆腐を買ってみたら、すごい。
表面だけ型押ししたような木綿風。中は絹ごしに近いもので、とうとうこんなもの売るようになったのかと思いました。おいしいけど、木綿の名で売るには違う気がする。県内大手の豆腐メーカー、やま○もそんな感じです。

興味のない人にとっては、どっちでもいい話だろうと思うんですけどね。
でも、どっしり、少しざらっとした断面は醤油などの味が染みやすく、あのさっぱりとしたおいしさは、充填豆腐にはない味わいだと思います。
たとえば、つくねの旨い店はほかの串もうまい、とか、焼き菓子がうまい店はケーキもうまいとか、基準になる商品ってあると思いますが、豆腐だと、やっぱりそれを測れるのは木綿じゃないですかね。


“雷豆腐” 木綿豆腐、にんにく、ネギまたはニラ、鰹節、ごま油、醤油
雷豆腐2019
Kaminari-dofu es un plato casero. Sofreímos tofu roto, zanaolia, cebollitas.
Pero los más importantes son aceite de sésamo y un diente de ajo.


なんとなく近所スーパーの売り場で木綿豆腐は減ってるし、あっても胡散臭いものが登場したりで、そのうち、木綿豆腐が巷から消える日が来そうで怖いな。なるべく大手のじゃない、地域メーカーのを買うようにしたいと思います。
何でもいつが最後になるかわからない。あるうちに楽しんでおきたいです。


“豆腐丼”
豆腐丼2019
Arroz con tofu

タモリさんがやってた豆腐丼。これは絹ごし豆腐のほうがOK。
胃にも、財布にもやさしいと思う。
これ、昔、熱々ごはんに、できたて豆腐をひとすくいして食べた時のことを思い出す。

| 市販の食品など compradas | 15:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

神話的時間、創造する力と寛容な態度

先日のログ2回にわたって、
ドラマ「ゲゲゲの女房」と、児童図書「あやとりの記」について思ったことを書きました。

桃色月見草past

たまたま目にした上記作品から、神話的時間とは、「見えんけど、在る」ことではないかと思い、その時間軸が入ってくることによって、作られる世界が豊かだな、と思ったのでした。
思えば、何かをクリエイトするときに、「見えんけど、在る」がなければ、創り上げられないのでは。
子どもに「神話的時間」が必要だという話は、その子の「何かを作り上げる力」を伸ばそうということで、大人の都合ではそれを奪うことにもなる、ということなんだろうと思いました。

たぶん、わたしも知らないうちに、親からその芽をわりと摘まれてきたんだろうな、という気がします。(わたしより、もっと現実的な見方を表現する親だったし。)
そのせいなのかどうか、普段、わたしは「見えんけど、おるもの」が見えもしていなければ意識もしていないし、むしろ、唐突に誰かからそういう話をされるのは苦手なほうです。
日常的時間にどっぷり浸かっているからでしょうね。


でも、「神話的時間」のことを考えて(特にあやとりの記を読んで)みた後で思いました。
誰か親しい人のプライベートに関わることがあったとき、その中では、時間スイッチがもうひとつあることをちょっと覚えておくだけで、少しは他人に優しくなれるし、自分にも救われるのではないかと。

例えばもし、人形を抱いた孤独な老人に接することがあったとして、そのときその人をどう思って見るか。

1.人形しか相手がいなくてかわいそう。
2.大切にしているんですね。その子は、なんていう名前かな。

こういう場合、日常的時間でしか物事を見ないのだったら、哀れみの目で見てしまいそうですが、かわいそうなのは、むしろ神話的時間を共有できないこっち側であるような気がします。
できれば、2番のほうの姿勢になりたいです。
その老人は、きっとスイッチを両方持っているんだけれど、こちらが2番を選べば、お互いが幸せかなと思います。

もう亡くなった人のことを生きているように言ったり、かわいがっているサボテンに、まるで人間のように話しかけたり、そういう場面に出くわしたときに、「そうだね。」と言えたらいいな。

長々と、神話的時間のことを考えたりやめたりしていましたが、自分の中ではこういう結論になりました。
もし、ここまで読んでくださった人がいらっしゃったら、辛抱強いですね。ありがとうございました。

| 日記・つぶやき diario | 23:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

「あやとりの記」を読んで

石牟礼道子さんの作品では、「苦海浄土」(1章)、「食べこしらえおままごと」を読んだことがあります。
熊本南部の方言で織りなされる人々と自然の交流が生き生きしていて、とても印象的だったので、それらより創作的な、物語としての作品「あやとりの記」を読んでみました。


“彼岸花” 物語に登場する。
彼岸花ー物語


この本は書店の児童書コーナーにあったのですが、350ページを超える文庫本で、子どもが簡単に読めるようには思えませんでした。しかも、読み始めてみると、1章からとても入りにくい世界。(でも、ここをクリアすると、2章以降はさらさら読めます。)
「みっちん」と呼ばれている主人公は4、5歳時の著者で、シャーマン的な、人の気持ちにすっとなりかわる気質があるため、まわりの人の気持ちや自然の持つ力を感じ取るセンサーがすごくて、山や川の神様または精霊のような、目に見えないものとの交流が描かれたり、彼女の意識が他の人と入れ替わったかと思えば、自分の意識に戻ったりと、なんとも混沌とした描き方なのです。


読み進めると、このお話に登場する人物は、老人と、大人だけど事情のある社会的弱者の人たちが主であることに気づきます。子どもである主人公みっちんと、これら社会的弱者の心の交流のお話で、素朴な熊本弁の会話に、土地の言い伝えや、自然の神様の話がからんできます。


・おもかさま(みっちんの盲目の祖母。精神を病んでいてよく彷徨する。)
・仙造やん (片足の老人。いつも馬を連れ、自然のものを採集して生活している)
・萩麿(仙造やんの愛馬)
・岩どん(海辺の火葬場の番人である爺さま)
・犬の仔せっちゃん(子犬を懐に入れている、大人の女乞食)
・ヒロム兄やん(孤児として育った、片目が見えない大男)

これらの人物が、とても良い心の持ち主で、著者は彼らを「すこし神様になりかけている人たち」と呼んでいます。
著者の、弱者に対する優しいまなざしは物語の中で一貫しています。
思うに、おもかさまも、シャーマン気質のある人で、みっちんが「日常的時間」に帰ってこれるのに対し、彼女は帰ってこれなくなった人なのかもしれない。


それから、「見えんけど、おる」のが
・「山の神さん」「川の神さん」など、自然を司る神様
・「あの衆(し)たち、あのひとたち」という、神様についている精霊のような存在
・「狐女(きつねじょ)」「わらすぐり」などの、化かす狐
・「髪長まんば」「迫んたぁま」など、不思議な妖怪のようなもの


このお話が深いなと思うのは、豊かな山と海の間に火葬場(死の場所)という土地の背景の中で、自然の恵みを神々に感謝しながら生きる人々、社会的弱者の無垢な心との交流を描いていることです。
おとぎ話のようなエピソードの向こうには貧困と差別など、厳しい部分が透けて見えるし、創作の物語ではあるけれど、リアルなものに思えます。土地に根付いた生と死。
現代の人が、土地に根付いたものを失って不安なのだとすれば、この物語の読後に、なんとなく豊かな気持ちにさせられるのは、自然なことかもしれません。


いちばんわたしの心に残ったのは、みっちんと岩どんの言葉のやりとりでした。
「赤ちゃんはみんな、海やら、川やらから、流れてくるちゅうのはほんと?」
という幼いみっちんに、岩どんが
「そうじゃのう、ああいう海から いのちちゅうのは、来たかもしれんな。」
と答える場面。
(略)
み「ひとりで?」
岩「ひとりでじゃとも」
(略)
み「舟に乗って?」
(略)
み「難儀なこっちゃなあ」
岩「この世にくるのは、お互い難儀なこっちゃ、大仕事じゃ」
岩「みっちんや、お前もよう来たのう、遠かところから」
み「爺さまもなあ」

例えば子どもが生まれた時、両親は「よく生まれてきたね」と子に感謝するかもしれませんが、自分の子でない人に「よくここまで来たね。」とは、なかなか気づけない。相手に対する最大限の尊厳だと思いました。


仮にもし、この物語を、日常的時間軸で描いたら、かなり絶望的な話になると思うんですよね。大人がマイノリティを語るときの、辛苦さばかりが際立つのではないかと。
神話的時間軸で描いているから、読んでいて救われるし、独特の魅力があるのだと思います。
昭和初期の、差別は今より際立っていただろう中でも、自然の豊かさの中で助け合って生きていた心根のきれいな人たち。そこに「見えんけど、おる」ものが、精神的な豊かさを与えていると思います。

--- --- --- --- --- --- --- --- --- --- 

1章
普段「日常的時間」にばかり身を置いているわたしにとっては、物語の入口が入りにくいのは当たり前かと思いました。
祖母と孫が無数の雪を見上げる場面では、雪の一粒一粒が、「あのひとたち=客人=(自然の精霊)」で、それは天の祭の最中なのだ、ということかな。2回読んで、なんとか飲み込みました。
雪が「自然のもの」の自我を浮かび上がらせ、「人間」の自我を埋没させて、すべてを均一に白く包み込むイメージは、難しいけども、次の章に行くためには必要な舞台装置なのかもしれません。

3章、4章
「見えんけど、おる」存在が、一番怖く思える展開で、フラグの立った怖いもの見たさに、あっという間に読める章です。でも、一番怖いのは人間の業と薄情さかな。

8章
みっちんの意識が激しく乖離したりする章なので難しいのですが、ヒロム兄やんと木の洞にいる場面のイメージが、どこか「もののけ姫」を思い出させると思いました。
体を持たない声だけの「迫んたぁま(せこんたぁま)」という精霊が、ジブリの「こだま」っぽいなぁと。
「あやとりの記」は、もう40年近く前に書かれ、さらに舞台はそこから40年以上遡った時代の話なのですが、当時「迫んたぁま」のような精霊が存在すると、伝承があったのかもしれません。
山に分け入ったとき、どこからか説明できない音がして不安になることって、あると思うんですよね。そしたら迫んたぁまが生まれても不思議はないかと。
ジブリのこだまは、どうやって生まれたのか知りませんが、何かこういう古い民間の伝承からヒントを得たのかもしれないですね。

| 日記・つぶやき diario | 22:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT